還暦を迎えた10年前はまるで他人事のようにさらりと肩でかわしていたのに、あれから10年、今年古稀を迎える羽目になって、ちょっと心中穏やかではなくなってきた。側の人間は古稀を祝事のように考えているらしいが、当人にとっては凶事なのである。自分は絶対老人にはならないぞと心に誓っていたものの、古稀という言葉の重圧はぼくにはかなり深刻である。なぜなら思い当たることが数々あるからだ。
健忘症は還暦以前から兆候はあったものの、古稀という声とともにかなり重症になってきた。数秒前の行為さえ記憶から抹殺されていることがある。今、ぼくはつい先日行ったばかりの温泉紀行の原稿を書き始めているのだが、ここまで書いた時点で、まだその地名が思い出せないでいる。困った、困ったものだ。一瞬、唾を飲み込んで虚空を睨みつけ意識を集中すること約10秒。閃いた地名は東山温泉だった。やれやれだ。こういうことは日常茶飯事で、ぼくにとっては別に珍しいことでもなんでもない。
東山温泉という地名は現地に着くまで知らなかった。行く前に聞いているにきまっているが、覚える気がないのであろう。いつもながらMさんが何から何までスタンバイしてくれるので、信用して彼について行けば、どこだっていいのだ。彼が決めたところが、つまりぼくの無意識が望むところだと決めているからである。普段から計画を立てるのが苦手だし、また計画通りに事が運ばれるのはスリリングに欠ける。旅は常に危険の誘惑に満ちている。第一、偶然が介在した方が行動や生活にリズムが生まれるではないか。偶然という言葉を使ったけれど、むしろ自然という言葉に置きかえた方がいいかもしれない。何が生じても「自然の計らい」という俯瞰的な視点で自分を見つめている方が難を難とも思わないでおれるじゃないですか。
こういう考えも、もしかしたら老境に差しかかったための特典と思えばいいのかもしれないけれど、どうも老人になりきれない自分に早く見切りをつけて、真の老境を愉しむべきかもしれない。Mさんから頂いた小林秀雄の講演CDを聴いていたら、氏はすでに還暦前に老人を自覚し、老境に達すれば老境らしく考え、立派な老人になるべく努力すべきだと語っておられる。サスペンダー付きの半パンに若者好みのハンティング姿の自分はどう見ても老境に突入した人間のするスタイルに反しており、社会に対しても自己に対しても、礼節を欠いているとしかいいようがない。外形を重んじたギリシャ人はともかくとして、自分の肉体を考えると、ギリシャ美からは生まれた時から完全に逸脱してしまっている。アンディ・ウォーホルは、私の絵は表面がすべてで裏には何もないと言ったが、この論理でいくと、ぼくの表面がすべてであるとはどうしても言いづらいのである。
東山温泉
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