温泉に導かれての旅も草津温泉を皮切りに前回の山中温泉で13ヵ所、一年が経った。元々温泉嫌いのぼくが次回の温泉旅行が今や待ち遠しくなっている。以前だったら忙しいスケジュールを調整しながらの旅になっただろうけれど、今は世間に振り回されるほど目まぐるしい日々を送っていないので、まるで子供が指折り数えて遠足を待ち望んでいる心境に近いんじゃないかな。また、毎回同行のMさんの配慮で「夫婦で温泉旅行ってのもいいんじゃないですか」と、妻まで誘ってくれた。
ぼくも齢よわい70、世間でも老人で通る年齢になってしまった。周辺の人たちはぼくのことを「どうみても古稀には見えないですよ」と煽(あお)ってくれるが、人間何も外見で勝負しているわけではない。じゃ内面かと聞かれたら、はたと困惑してしまう。年齢にふさわしい内面の成長を遂げているとはいえないからだ。同じ70歳でも見るからに人間的成長を遂げた立派な老人が世の中にはいるが、ぼくはどうも彼らと比較すると幼い老人のように思えて、同類項のようには思えないのである。ある程度人間は年齢にふさわしい歳の取り方をするべきだと思う。せっかく70歳になったというのに、40代のような考え方をしていたり、30代のような服装をしていたり、20代のような作品を作っていたりすると、歳を取った値打ちがないではないか。
せめて恰好だけでも一目見て老人と思われるべきではないか。高齢化社会では70歳はまだまだ働き盛りと考えている者もいるに違いない。いや自分の年齢さえ意識していない老人が社会の表舞台で活躍している時代だ。こういう老人は死に対して無関心でいるのかもしれない。だけどよりよく生きるためには死に無関心であってはならない。自らの年齢と死について吟味することで老人の生き方がより良く楽しくなることを知らなければならないとはヘルマン・ヘッセや小林秀雄、それに中野孝次らの弁である。そして彼らは自らの生き方を通じて、われわれに見本を示してくれている。「徒然草」の吉田兼好もしかりである。
さて古稀のぼやきはこの辺にして、温泉に話を戻そう。とは言うものの、温泉と老齢はどうも切り離せられない。どこの温泉に行っても、出会うのは老人が大半だ。温泉は最終的に老人の健康と趣味の世界が一致した表象でもある。そして温泉と閑暇はどこかで結びついている。「徒然草」の中の心身永閑の生き方と温泉は無縁でないような気がする。あわただしいスケジュールで温泉に行ったって本当の閑は味わえない。幸い今のぼくの日常は時間がたっぷりある。外なる時間が主導を取っていた時代はぼくの中で終焉を迎えつつあり、今や内なる時間が主導権を握っているので温泉に仕事を持っていくこともなく、好きな本が一冊あればそれで十分だ。以前は退屈というのは地獄だった。何もしないことほど苦痛はなかった。今は何もしない時間は好きな本や画集を開いておれば何時間でも遊べる。それ以外の時間は絵を描いたり、道を歩いているか本屋にいるか画材屋かのどちらかだ。
運命の温泉旅行
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