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運命の温泉旅行

 カラスの行水だったぼくも温泉に慣れてくると、結構長湯をするようになった。とはいっても温泉の長湯は禁物である。だけど温泉はなぜか湯冷めがしない。翌朝まで湯たんぽのように体がほてっている。朝風呂を浴びて朝食のあと旅館をチェックアウトしたあと夕刻頃まで観光見物をするのがわれわれの行動パターンであるが、東京に帰って家で床に入るとすぐ眠ってしまう。ぼくにとっての温泉の効用はきっちり心身にいい結果を及ぼしてくれている。また体調不良というようなことは滅多になく、風邪っぽくても以前のように長引くことはない。
 仕事はといえば、温泉旅行から帰るなりすぐ絵とエッセイに取りかかりたくなるので、ぼくの中では仕事という感覚がほとんどないといっていい。もし仕事で絵を描くんだったら何も100号や150号の大きさの絵など誰が描きますかいな。毎回エッセイと共に掲載している絵は畳3枚位の大きさの絵だったりするんですよ。まだMさんは一度も原画を見ていないので、見るときっと驚くのじゃないかな。これも閑のある生活だから可能で、外部に振り回されていたら決して描けなかったと思う。1泊2日の旅行は忙しいように思われるかもしれないが、よく妻と話すのだが、2、3泊旅行をしたような気がするねと、時間の単位が変ったように感じるのである。やはり夜と朝のたった二回だけれど温泉に体を沈めることが、心身永閑がわれわれの時間意識に変化を起こさせるのかもしれない。温泉が逆に閑を作ってくれるともいえる。もし過去の一年が温泉旅行のなかった一年だったとすると実に忙しい一年であったに違いない。月に一度温泉に入っているというだけで、心身がリラックスモードになってしまっているらしい。
 ぼくには一般会社のような定年はないが、温泉旅行をするようになってからは何だか定年後の生活をしているような気がしないでもない。というのも、したくないことはなるべくしない、したいことだけをするという考えにマナーモードを切り換えたからだ。すると、一般常識というか世間の価値観と逆行することがしばしば起こる。例えば大して意味のないことがしたくなったり、普通にはしんどいと思われることもしんどいと思わないでできたり、価値のないことに独自の価値を発見したりすることもある。つまり頭が要求しているものではなく体が要求しているものに忠実になれば、一般常識は無価値になるのである。まあ芸術というのはこれをやっているわけだけれどね。

横尾忠則の温泉主義

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