そんなあれこれがあって、スタートは簡単だった。あっさりと、気がついたらもうレースがはじまっている。この辺は野球のスタジアムにも少し似ている。テレビ慣れしている目には、スタジアム全体の雰囲気に目が奪われていて、第一球がいきなりもうはじまっている。いきなりショートゴロか何か打たれて、あ、もう始ってるんだ、とわかったりする。
でもスタートしてからの群衆の気配が面白い。レースが始った、というざわめきの中に、いよいよディープインパクトがスタートした、という思いの強くあるのがわかる。
レースは一周とちょっとのコースで、一周し終って最後の直線コースに入り、最後尾を走っていたディープインパクトが、いよいよスパートした。最後は案の定、という感じで、トップに立って抜き去った。この時の群衆の唸りと、何万という声の高まりは凄い。妙に感動したのだが、この感動は何だろうか。
相手は馬である。松井とか松坂ではなく、何もしゃべらない馬だ。騎手は武豊だけど、ファンによると、それは大したことでもないらしい。やはりディープという馬そのものが人々を感動させるらしい。馬の天才ということだろうか。
みんなどやどやと緊張がほぐれ、これまでの凱旋門賞以来のもやもやが晴れた、という感じだった。ほっとした、という空気だった。たしかにトップで駆け抜けたが、前みたいにストレートの球がホップする、という凄みにはちょっと欠けていたようだ。でも俺の馬が勝った、という安心感みたいなものがみんなにあった。人間のヒーローというのはわかるが、動物のヒーローというのがいまひとつ不思議で、でもその透明感が気持ちいい。そういえば汐留にJRAのビルがあり、以前試しに入ってみたら、近代ビルの全館が場外馬券ビルだった。その日は注目のレースのない日だったようで、がらんとしたフロアに、電光掲示板の数字データだけが動いている。ときどき人が立ってそれをじーっと見ていて、株式関係の取引所みたいな感じだった。最上階には人々が少し溜っていて、電光掲示板を見てじっと考え、新聞を見てじっと考えている。それぞれは独りで来ているようで、みんなたむろしてはいるけど凄く静かで、そうだ、この雰囲気は図書館だ、と思った。競馬というのは大変知的な世界なんだ。
人を感動させる馬
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)1937年、横浜生まれ。『父が消えた』で芥川賞受賞。『ふしぎなお金』『目玉の学校』など、著者ならではの、まともに考えれば考えるほど不可思議な人間社会の謎を探究する目からウロコの名著多数。
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