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道後温泉

 翌朝、Y字路探しのつもりで街に出る。商店街の店頭に本物そっくりの猫のぬいぐるみがあったので妻に買うように言う。松山といえば夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台で、「坊ちゃん」の文字はいたる所で目に飛びこんでくる。ぼくが買った猫のぬいぐるみは「吾輩は猫である」にちなんだ猫だろう。この猫は今もわが家の卓袱台(ちゃぶだい)の上に寝そべっていて、ちょっとした物音や振動で本物の猫そっくりの声で三度鳴く。だけどわが家の本物の猫はこの「吾輩」を完全に無視している。
 商店街を抜けた所に、道後駅があって、「坊ちゃん」の中で漱石が呼んだ「マッチ箱のような汽車」が明治の姿そのままで走っている。向こうから人力車がやってきた。見ると、角隠しをした新婦と羽織袴の新郎が乗っている。珍しい光景だと思って見ていたら、二人はモデルで観光のためのパフォーマンスだということがわかった。地形は起伏が多く、道は曲りくねっていて変化に富んでいるのに、お目当てのY字路は全く見つからない。ぼくにとってY字路の多い街はいい街で、Y字路のない街は良くない街ということで、つい悪口のひとつも出てくる。まあ夏目漱石みたいに手当たり次第に松山の悪口ばかりを吐いているのにもかかわらず、こんなに松山の人から愛されている人も珍しい。
 漱石は松山よりもどっちかというと熊本の方が滞在は長かったはずだ。だけど熊本を舞台にした小説がないので、松山を舞台にした小説はいくら悪口を言われても寛大な市民は漱石を許す。世間の人が松山の人みたいに心が寛大になれば世の中も平和でいいのだがなあ。
 この時期に松山にやって来た理由のひとつに愛媛県立美術館で開催中の「魚のすがた展」に以前描いた海底に潜水服の男がいて背後に竜宮城から出てくる亀に乗った浦島太郎をカラフルに描いた作品を出品しているからだった。異なった場所で他の作家たちの作品と並んで展示されていると作品の印象が違って見える。日本画から現代美術まで様々なスタイルの魚を描いた作品が展示されている。琴平で密着取材を受けていたNHK「にんげんドキュメント」のテレビのクルーはここでも取材を続けている。
 ところでここ松山に木下大サーカスが来ているのを知ったぼくは、なんとか見たいと思ったがすでにチケットは完売だった。そのことを美術館の人に話すと、さっそくチケットを手に入れてくれた。旅先でサーカスが見られるなんて最高だと大喜びしたのもつかの間、明日は休みだという。外国のサーカスは何回か見たことがあるが、日本のサーカスは子供時代に見たままだ。あのジンタの音が今でも耳の奥で物悲しく聞こえる、そんなノスタルジーをもう一度体験してみたいと思ったのに残念だった。この原稿を書いているのは元旦だが、今朝テレビで木下大サーカスの一部を見ることができた。だけどぼくの期待は完全に裏切られた。悲しいジンタの音などのイメージは全くない。外国のサーカスとあまり変らないスポーツのように健全なサーカスに変っていた。それにしても「にんげんドキュメント」の中にサーカスの場面が入るだけで、ぼくの作品が言わんとする何か重要なメッセージが語られたかもしれなかったと思うと、ただ残念としか言いようがない。

横尾忠則(よこお・ただのり)1936年兵庫県生まれ。美術家。昨年、パリのカルティエ現代美術財団で個展を開催し高い評価を得た。近著に『横尾忠則Y字路』(東方出版)、『病の神様』(文藝春秋)がある。2006年日本文化デザイン大賞受賞。現在、「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」愛知県美術館(2月12日まで)、「美をもとめて――岸田劉生から横尾忠則まで」川越市立美術館(3月25日まで)、「TADANORI YOKOO Y JUNCTION」西脇市岡之山美術館(3月30日まで)、に作品を出品。また、「横尾忠則の版画集」徳島県立近代美術館(2月17日から)に作品を出品予定。オフィシャルホームページhttp://www.tadanoriyokoo.com

横尾忠則の温泉主義

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