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道後温泉

 昨日琴平、今日道後と温泉のハシゴはじつに贅沢な気分にさせてくれる。毎日違う温泉に入るのは贅沢であるが、それ以上に贅沢なのは飛行機を使わないで電車でやってきたことだ。空を飛べば1時間半くらいのところを、わざわざ陸路をたっぷり5時間以上もかけて、今どき四国までやってくる者が珍しい時代になってきたといえまいか。まあこんなところで反骨精神をとやかく言うつもりはないけれど、世間のスピード感に逆行しているのはちょっといい気分でもある。
 以前にも書いたが月一回の温泉旅行を始めてからというもの、日常生活の時間の進み方が変化したのか、気分がのんびりしているように思えるのである。以前のようにコセコセ忙しくしてみせるというようなこともなくなったような気がする。それと温泉に入ると老人気分になって、老人もいいもんだなあと、自分のなかの老人原理に目覚めて、隠居的人生観とやらをひとつ愉しむのも悪くないぞと思うのである。隠居といったって、別に居を隠すでもなく、またカントリー・ジェントルマンになるわけでもない。「あなた方はあなた方でどうぞご随意に、私は私で好きなことをして過ごします」といった程度で、まあ相手を突き放してちょっと変人に生きることかなという感じである。
 旅に出ても何か行動を起こそうという気分もなく、予定は同行のMさん主導で動いているが、老人感覚でいえばまあそこら辺りを徘徊しているという感じかな。徘徊なんていうと夢遊病者だった父を想い出すが、といって別に魑魅魍魎(ちみもうりょう)の徘徊とは違う。だけど旅はぼくにとっては徘徊みたいなものだ。絵を描くことともよく似ている。キャンバスの中をああでもないこうでもないと、描いたり消したりしながら、絵画という旅を愉しんでいる、そんな気分はまさに徘徊である。そう考えると旅もキャンバスに描かれる絵によく似ている。あちこちで出会う様々な風景や事象は絵でいえば、ひとつの点描であると思う。肉体感覚で様々な事象を認識するより、少し視点を変えてアストラルボディになったつもりで天空から自分の姿を見下ろせば、ひとつの点描にしか見えないはずだ。
 ところで今回は道後温泉である。道後はその昔、中学の修学旅行で来たような来ないような不確かな記憶しかない。はっきりわかっているのは柴田練三郎さんと奥道後温泉に行ったことはあるが、その時は道後温泉には行かなかった。道後といえば妻の父親の生地で、彼女も道後にしばらくいたというが、何を聞いても何ひとつ覚えていない。
 だけどぼくに関していえば微かな記憶の中で、ある光景だけが鮮やかに写し出される。それは三階建ての巨大な銭湯に入ったという記憶だ。辺りは湯気で朦朧(もうろう)としているが、大きい浴槽の中にはたくさんの人が入っていて、下から見上げると三層になっており、周囲の壁に添ってバルコニーがあって、そしてそこから見物客が浴槽の中の人々を見下ろしているという光景だ。その大浴場はコンクリートと木で造られていてかなり古い建物だった。生理的な印象として田舎の銭湯みたいに湯の匂いに悪臭がしたのを記憶している。そしてこんな芋の子を洗うような人でいっぱいの浴場なんかに来なきゃよかったと思いながら湯につかるなりすぐ上がったのを覚えている。

横尾忠則の温泉主義

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