
えんらえんら―。
それは「煙羅煙羅」と書く。また「閻羅閻羅」とも、「遠羅遠羅」とも書くと云う。
「えんらえんら」とは、煙の妖怪の事である。
昔―。かまどの煙が消えずに漂い、様々な生き物や人の顔、あるいは「魔物」のように見える時、煙の中に「えんらえんら」がいるのだとされた。
妖怪―。
その不可思議なる存在を題材にした独自のスタイルで、ミステリー小説に新風を吹き込んだ作家がいる。
京極夏彦―。
94年に刊行された京極夏彦のデビュー作「姑獲鳥の夏」は、「姑獲鳥(うぶめ)」という妖怪がモチーフである。
しかし小説の中に妖怪は登場しない。一切の超常現象も起こらない。
あまつさえ主人公である京極堂という人物は、こう言い放つ。
「この世には不思議なことなど何もないのです。あるべきものしかないし、起こるべきことしか起こらないのです」
不思議はない―。そう断言する京極夏彦の描く「妖怪」とは、如何なる物なのか?
人間は自分の知識や理解が及ばぬ出来事に遭遇すると、それを不思議だと言う。
しかし、それを解明し理解する知識を持つ他者から見れば、不思議は一瞬で不思議ではなくなる。つまり「あるべきものしかないし、起こるべきことしか起こらない」となるのである。
多くの不思議も、現代では科学の進歩で合理的な説明がなされ、不思議ではなくなった。だが合理的な説明がなされる前の昔にも、人間は不思議を合理的に説明するための「手段」を必要とした。
そのために生み出されたのが、「妖怪」という「概念」である。
先の姑獲鳥という妖怪は、お産で死んだ女の「無念」という「概念」に、形と名前を与えて出来た「共通認識」である。昔の人々は、様々な「不思議」に妖怪の形と名前を与え、共通認識とした。
京極夏彦が描く妖怪とは、この共通認識としての妖怪である。作中の主人公・京極堂は古本屋であり、また神主であり、また祈祷師でもある。
祈祷師としての京極堂は、人々を苦しめる「憑物」を落とす。しかし「不思議はない」と言う京極堂は、憑物落としをどのように行うのか?
京極堂は、一見不思議と思える出来事に妖怪の形と名前を与え、当事者たちの共通認識とした上で、その妖怪を「祓う」事で納得させ、事件を解決する。つまり憑物を落とす。そこに不思議は当然、ない。
ベストセラーとなった「姑獲鳥の夏」に続く「魍魎の匣」で、日本推理作家協会賞を受賞。以降、泉鏡花文学賞、山本周五郎賞、そして直木賞を受賞。本年は「魍魎の匣」も映画化され、公開を待っている。
書斎で構想する京極夏彦が燻らせる煙草の紫煙。その紫煙が様々な妖怪の形となり、小説として結実する。
まるで「えんらえんら」のように―。
(文/山田誠二)
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