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下田温泉

 この温泉の泉質は弱アルカリ性単純温泉で、温泉の成分は硫黄、ナトリウム、塩素、カルシウムなどのイオンが含有されている。また効能はだいたいどこの温泉も似たり寄ったりだが、リウマチ性疾患、神経痛、運動器障害、疲労回復等のいわゆる老人病が対象である。テレビや雑誌でさかんに温泉特集をしているが、やってくるのはだいたい老人が中心で、若者を見るのはまれである。にもかかわらずメディアの上では温泉ブームである。前にも書いたが若者にとっての温泉ブームはバーチャルが主流で、車を運転しないペーパードライバーみたいなものではないのだろうか。
 昼過ぎにチェックアウトをして海中水族館に行く。ぼくは海底の絵を時々描いているので、水族館があるのは嬉しい。ところがぼくは生まれて初めて観るイルカのショーにはえらい感動した。トレーナーと息がピッタリ合ったイルカの演技は壮観としかいいようがなかった。イルカが水中から助走をつけて背にトレーナーを乗せて全速力で泳いだり、空中5メートル近くまで大ジャンプする圧巻の光景には思わず息を呑んだ。Mさんは何度もこの種のショーを観たことがあり、シャチのショーはもっと凄いという。いつか観たいものだ。ここでぼくが面白かったのはドクターフィッシュという小さい魚だった。水槽に手を入れると沢山集まってきて手の皮膚の掃除をしてくれるというものだった。ぼくの手には20匹以上群がるのに、妻にはたった二匹だけ。沢山来る方がエライと思っていたら、そうじゃなくって手が悪いんだと、よそのおばさんが横で言った。できることならドクターフィッシュをわが家の浴槽に飼って全身に群がってもらいたいと思った。女性などは顔を水中につけて皮膚を掃除してもらったら下手な美容術を施すよりずっと有効ではないかとも思った。
 順序が後先になったが、水族館に行く前に玉泉寺を訪ねた。ここは初代アメリカ総領事館になった場所で、前述のハリス総領事が駐留していた。ここのハリス記念館がお吉の物語の舞台でもある。この寺にも広い墓地があってアメリカの水夫の墓が何基も並んでいる。遠い異国で病死でもしたのだろうか、日本風の墓石に横文字が書いてあるのが、なんだかエキゾチックだったので、今度郷里に造るわが家の墓石にも和文字と並べて横文字を入れてみたくなった。
 下田といえば三島由紀夫さんがしばしば来られた下田東急ホテルがある。三島さんの想い出でも語りながら昼食をと、下田の入江の高台を見晴らす南国ムードいっぱいの庭園の見えるレストランでカレーを食べる。三島さんがよく泳いだというプールが庭の木々の間からよく見える。三島さんの小説で舞台として下田がでてくる話がなかったか、Mさんと考えたがどうしても想い出せない。帰京してから調べてみよう。
 帰りはスーパービュー「踊り子」号で新宿で降りた。新宿の人間の多さに圧倒されてしまった。新宿はいつも車で通り過ぎるだけでめったに歩かないので、人混みを避けるだけでヘトヘトに疲れてしまった。その足でもう一度下田温泉に戻りたくなったほどだ。
 ここまで原稿を書いてとりあえず入稿した頃、Mさんが三島由紀夫の『岬にての物語』の中に下田を舞台にした短編小説が載っているといって送ってくれた。その小説は「月澹荘綺譚(げつたんそうきたん)」という以前読んだことのある作品で、何とも悲しいグロテスクな、でも絵画化してみたくなる不思議な美を喚起させる物語であったと記憶している。改めてこの小説の冒頭に眼を通すと、下田東急ホテルから入江に降りていく道すがらがまるでカメラの眼のように克明に描かれているのだった。できればこの本を片手に描かれている道を入江まで降りていけばよかったと、後の祭りを悔んだものである。

横尾忠則(よこお・ただのり)1936年兵庫県生まれ。美術家。昨年、パリのカルティエ現代美術財団で個展を開催し高い評価を得た。近著に『横尾忠則Y字路』(東方出版)、『病の神様』(文藝春秋)がある。2006年日本文化デザイン大賞受賞。現在、「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」島根県立美術館(3月9日から5月6日まで)、「美をもとめて――岸田劉生から横尾忠則まで」川越市立美術館(3月25日まで)、「TADANORI YOKOO Y JUNCTION」西脇市岡之山美術館(3月30日まで)、「横尾忠則の版画集」徳島県立近代美術館(3月18日まで)に作品を出品。また、6月と9月にはミラノで絵画の個展が開催される予定。オフィシャルホームページhttp://www.tadanoriyokoo.com

横尾忠則の温泉主義

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