木村― お生まれは東京ですね。
田中― 昭和31年、「もはや戦後ではない」という年に東京で生まれたわけです。西武線の沿線に住んでましてね、おばあちゃんと一緒に池袋に行って、いまパルコになっちゃったところが昔は京都の丸物が入っていました。あの中二階に不二家が入っていました。あそこに行ってペコちゃんの頭をなでて帰ってきたりしてたんですね。
木村― 康夫少年はどんな少年だったんですかね。先生をやりこめるような少年だったような気がしますけど、そんなことないですか?
田中― 幼稚園の先生同士が「あしたは映画に行くの」とか言うと、「先生、誰と行くの、どこの男の人と行くの?」って聞くような子でしたね。耳学問ですね。
それからこんな話も聞いています。母親は教員をやっていて帰宅時間が遅いものですから、私も幼稚園で保育時間後にやっていたお絵かき教室なんかに通ってたわけです。ある時、母親が帰ってきても、私は帰ってこない。どうしたんだと思って教室に来てみたら、まだ絵を描いてる。絵はちょこっとしか描けていないのに、最初は幼稚園児、次は小学校低学年、中学年……と次々にやってくる子どもたちとしゃべってたんですね。絵の先生が「この子は、絵の才能はないけど、ほんとに人の話に合わせてそれなりのことを言うのはうまいわ」って言ってたという話です。
木村― 長野に移ったのは小学校の頃ですね。
田中― 東京から長野に移ったのが1964年、オリンピックの年ですから、日本橋がコンクリートになっちゃったとき、光化学スモッグのときに長野に行ったんです。そのときは東海道新幹線ができて「すごいなあ」と思ったし、その前年に黒部ダムができたときにも、脱ダム宣言の田中康夫も「あっ! 日本ってすごいわ」と思ったんです。世界銀行からカネを借りていたかもしれないけど、それは「たいしたものだ」と。これ、長野で生まれてずっと長野にいて、大学に入ったから東京へ来てもいまの私がないし、ずうっと東京に住んでても私がないと思うんですよ。
木村― 政治を志そうというか、長野県の知事になろうと思われた一番大きなモチベーションは何なのですか。
田中― それは……「知事になりませんか」っていう人たちがいたからです。言われているように、当初は地元銀行の頭取とかいう人が、41年6ヵ月官僚県政が続いたうえに、次に立候補する副知事ともあまり仲がよくなくて、その人がなるのはしゃくだったからだったのかもしれません。焼却したと居直っていた冬季五輪招致の帳簿を見付けだして、そのデタラメ振りを特命委員会が明らかにしたら、監査をしていたのが実はその銀行で、反田中に転じましたけど。
私自身にとっては、かねがね言っているように、恋愛もボランティアも政治も一緒です。世のなかのためにも、私が生かせる場所があると多くの人が思うのだったら、それをやってみようかなということですね。
それともうひとつは、神戸での経験ですね。神戸空港建設の是非を問う住民投票を実現しようという運動で、人口150万の街で、印鑑や拇印まで押して、35万人もの人が署名してくれたわけですが、神戸市長も神戸市議会もこの住民の声を無視したわけです。
私は原理主義的な公共事業反対論者ではなくて、新幹線の駅もあるし空港も近くに2つもあるし、借金を抱えた財政破綻の街にわざわざ空港をつくる必要なんかないという発想だったんですけどね。あれだけみんなの思いがあっても、代議士制のもとでは議決されちゃう。それなら執行権者である知事だと阻止できるのかなとも思ったんですね。
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