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藤井純一

就任一年目で日本一になった
(株)北海道日本ハムファイターズ社長

たまたまスポーツビジネスを始めた

 「大学の専攻が水産化学でしたから、食品会社への就職を希望していたんです。ただ、技術系で就職したんですが、身体にアクシデントがあって、営業に回されたんです。面接のとき、部署はどこでもいいとは言ってましたけれどね(笑)」
 49年生まれの団塊の世代。73年に日本ハム(株)へ入社、福知山出張所へ配属された(ちょうどその年、日本ハムが球団を買収した)。初めて大卒が配属される職場、会社も急成長期、がむしゃらに働いた。3年後、営業所に格上げされ、やがて全国トップレベルの成績を上げるようになった。その後、奈良営業所を経て、85年に本社営業企画部に異動。それまでの営業経験を生かし、スーパーなどでの棚陳列の効率化を図る「日本ハム・ラック・システム(NRシステム)」を考案、意匠登録する。技術系志望だった血が、新しいアイデアを生んだのだろう。
 「お客さんがきてくれて、会社が儲かるというのが、僕は面白いんです。金儲けが好きだから、金儲けをするためには、どうすればいいのかを考えるのが好きなんですよ。それはいまも同じなんですが、収入をどう確保して、収支バランスを合わせていくのが楽しい。無駄な金は一切払いたくなくて、もらうほうは1円でも余計にもらいたい。それが、僕の基本なんです(笑)」
 辣腕を買われ、広告宣伝室へ異動。87年、バブル経済の時代だった。CM制作、コンサートツアーやTV、ラジオ番組のスポンサード……新しい試みを次々と成功させた。相応の経費はかかったが、売上げは飛躍的に増えた――藤井氏は、その後に役に立つ、さまざまな経営ノウハウを自家薬籠中のものにしたのだろう。
 97年、日本ハムも出資するJリーグ、セレッソ大阪取締役事業部長に就任。赤字経営からの脱却、それが使命だった。
 「東京にはファイターズがあり、本社のある大阪でも何かをやりたかった。それで、たまたま広告宣伝室の僕のところに、ヤンマーさんから話があり、Jリーグに参入することになった。だから、準備室の段階から、セレッソに関わっていたんです。その後、日本ハムが経理、ヤンマーが強化、カプコンが営業を担当していたんですが、96年にカプコンが撤退、営業担当として僕に白羽の矢が立った」
 93年、ヤンマーディーゼルサッカー部を母体に発足したセレッソ大阪。95年Jリーグに昇格したが、その後Jリーグバブルが弾け、観客数は低迷。さらに、チームは成績不振、最悪の状態だった。
 「サービス産業は見えないものを売る。それまでメーカーで見えるものを売っていましたので、厳しいと思いましたね。目に見えないものを売ることは集客ですから、どうやってお客さんにきてもらうか――最初、目標にしたのは収益は別にして、前年の観客動員数を絶対割らないこと。具体的には、地域密着を一からやった。当時セレッソ大阪のホームスタジアム・長居スタジアム周辺でも、30万人くらいの人口があるのに、全然営業できていない状況でしたからね。地元商店街でチケットを売ってもらったり、小口スポンサーを集めたり、自転車で20分以内で行けるところを、重点的に営業しました」
 人事にも大なたを振るった。社員30人中、日本ハムとヤンマーからの出向が16人。12人を本社に戻したのである。
 「ファイターズも同じだったんですが、予算もないし、収益も収支もない。親会社の広告塔でいいと、それが許されてきたところがあるんです。赤字でも許される、親方日の丸体質が全体に蔓延していた。また、出向者は天下りみたいなもので、まったく経営責任を感じない。ビジネスと呼べるものではなかったんです」
 藤井氏はスポーツをビジネスとして、営業で培った経営センスと、宣伝で身に付けたプロモーション能力を駆使して、セレッソ大阪を変えていった。00年、代表取締役社長に就任。バイエルン・ミュンヘンとアドバイザリー契約を結ぶなど、欧米のスポーツビジネスを学んだ。
 「ヨーロッパには年6回くらい、行きました。地域密着や商品開発、広報の方法論、選手の評価システムなどなど、いろいろ勉強になりましたね。また、海外に人脈もできて、エージェントを通さず、03年6月にはセリエAのパルマと親善試合を自前で行うこともできました」
 経営を黒字転換、04年に社長退任。日本ハム本社関連企業本部スポーツマーケティング担当部長を務めていたが、05年北海道日本ハムファイターズ常務執行役員事業本部長に就く。ミッションはセレッソ大阪と同様、経営黒字化だった。

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