駅の改札口を出るなりMさんは「旅館まで5分ぐらいだから歩きませんか」と言った。「ああ」とぼくは言ったが、新興住宅地みたいにだだっ広くて、家だって碁盤に碁石を並べたように隙間だらけに建っていて、駅前特有の密度性もなく、駅から真っ直ぐ伸びた大通りには商店街もない。まして徒歩5分のところに温泉郷も温泉街も存在しているようにはとても思えない。
やや不安な思いでトボトボ駅前通りを歩いていると、左手に門柱のあるなんだか公的な造りの建物の前に来て、「ここみたい」とMさんも心なしか無表情のままに言った。ここがわれわれが今夜泊まる温泉旅館かと思うと、期待が裏切られて力が抜けていくのを感じた。寅さん映画のさくらの夫役の俳優さんに似たよく喋る接客係がやってきてMさんに何やら説明している。
わが夫婦が通された3階の和洋折衷の部屋は会社の研修会の社員が3、4人で泊まるための部屋みたいで、窓から見える正面の建物は雀荘で、眼の前を車が走っている。その通りは今しがた駅から歩いてきた道路だ。どう考えても温泉旅館の旅情とはほど遠い。窓の外の風景を遮るためにシャッターを下ろして眼を汚染から守ることにした。
この地は深沢七郎さんの郷里で、以前深沢さんと桃の花の満開時に遊びに来たことがあった。辺りは桃源郷と化し桃色一色に村々が染められていた。だから石和温泉と聞いた時、てっきり桃の花に囲まれた温泉郷を想像したのだった。だから駅前に立った時、駅を間違ったのではないかと思ったくらいだ。
夕食まではまだ時間がありそうなのでタクシーで観光をすることにした。「ざっと温泉街を一巡しましょう」と言った運転手の言葉からは、川の畔に柳の並木があって、川を挟んで旅館街が並んでいる城崎温泉の光景が浮かんできた。だって旅館でもらったチラシにもちゃんと「温泉郷」と書いてある。同じ泊まるならこちらの方が温泉情緒に浸れるのにと少々がっかりもした。ところがタクシーの運転手が言う温泉街というのは、どこのことを言っているのか知らないが、眼に飛びこんでくるのは、まるで長屋のようにひしめきあった原色のケバケバした看板のある風俗店ばかりだ。まだ昼間だからシャッターが下りたままで、まるでさびれた基地の街のようにしか映らない。なんと風俗店の並ぶ奥にはストリップ劇場まである。チラシに書かれた温泉郷とはこの界隈にある温泉宿のことらしい。東京に帰って知ったことだが、この温泉は東京の奥座敷としてことに名の知れた「名所」だそうだ。温泉街とやらを一巡したあと、一人も客のいないキッチュな宝石庭園を観てホテルに戻る。
さて、この後に今回の旅のハイライトが待ち構えていようとは運命の主人公であるぼくにも予測できなかった。結論から先に言ってしまうと、ぼくは救急車で病院に運ばれたのだった。夕食で口にした前菜によって突然口の中と咽、そして耳を襲った痺(しび)れと、視界がかすむという症状に恐怖感を感じたぼくは、救急車を呼んでもらうというパニックを演出してしまったのだった。
石和温泉
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