つまりそんな感覚がいまの自転車からは完全に失せているわけで、その失せたところに公共物みたいな感覚が入り込んでいる。
だから金銭の盗みというよりも、商店のシャッターに落書きする感覚で持ち去るのがいまの自転車泥棒だ。そんなことがはじまったのは、いまから20年ほど前からのことではないか。
自転車が安くなったということもあり、それが世の中にあふれ、それを持ち去ることの罪悪感が薄くなった。だから酔っ払った男が平気で駅前から乗り逃げし、家の近くに乗り捨てる。乗り捨てるだけならまだしも、意味もなくどぶ川の中に放り投げたりする。
ぼくは自転車が好きだが、そういう世の中になってきてから、もう自転車から気持は去った。買うとなればいい物を買いたいわけで、でもそのいい自転車をそういう目には合わせたくない。
物があふれたということが背景にはあるが、戦後教育の中から道徳の消えたことが大きい。学校でも教えないし、とくに家庭でまったく教えない。子供の自主性というものだけを重んじて、すべては自由でいいんだということにしている。つまり物わかりのいい親、という位置にみんなが逃げ込み、その結果、人間は自由なんだよ、猿と同じなんだよ、人間は猿でいいんだよ、モラルなんて一銭にもならないよと、そういう家庭教育の普及が、こんにちのガードレール泥棒にまで到達している。
少々短絡しすぎたが、いまの世の鉄屑泥棒をただ猿の仕業とはいえない。そのことに驚かない人間が出来てしまっているのである。
鉄を喰う猿
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)1937年、横浜生まれ。『父が消えた』で芥川賞受賞。『ふしぎなお金』『目玉の学校』など、著者ならではの、まともに考えれば考えるほど不可思議な人間社会の謎を探究する目からウロコの名著多数。
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