法政一高、法大、阪神、西武、ダイエー……
行く先々で、数々のエピソードを生み、
漫画にまでなってしまった伝説の「天才」バッター
次から次へ話は尽きることなく、ついにタイムアップ
「星野ジャパン」のことなど、もっともっと聞きたかったのですが……
田淵幸一 北京五輪 野球日本代表チーム ヘッドコーチ
運も才能
(たぶち・こういち)1946年、東京都生まれ。法政一高から法政大学経済学部入学。大学時代は、山本浩二、富田勝と「法政三羽ガラス」として騒がれ、通算22本塁打は長嶋の8本を大きく上回る六大学新記録。68年のドラフト会議で阪神に指名され、入団。69年、入団一年目に22本塁打を放ち新人王となる。70年8月の対広島戦で外木場義郎投手から耳への死球を受け、再起が危ぶまれたが、72年には34本塁打を放ち、ベストナインにも選ばれるなど(以後5年連続)完全復帰。75年には43本塁打で本塁打王。78年、新生西武ライオンズにトレードで入団。80年には43本塁打とパリーグでも活躍。82年、83年には広岡達朗監督の下で日本一となった。84年現役引退。通算本塁打は474本。90年、杉浦忠の後任として福岡ダイエーホークスの監督に就任。92年、監督退任。02年から2年間、星野仙一監督のもと、阪神のチーフ打撃コーチを勤める。03年の阪神タイガースの優勝に貢献し同年退団。現在はTBSの解説者、また今年1月、星野監督率いる北京オリンピックの野球日本代表チームのヘッド兼打撃コーチに就任した。なお夫人は元女優の八田有加(ジャネット八田)である。
木村― 野球を始められたのはいつごろからなんですか。
田淵― 小学校のころ、自宅のすぐ近くが学習院でしたから、学習院のバックネット裏に、夏は朝早くセミとりに行ったりした林があったんです。そこで、硬球を探してキャッチボールしたり、折れたバットを釘でつないだりして遊んだのがはじまりですね。
木村― 最初からキャッチャーなんですか。
田淵― いやいや、中学時代は外野手でした。
木村― 高校は法政一高ですよね。
田淵― そう。一高は野球が強かったから。しかし一高へ行って入部したら、部員が120人ぐらいいるんですよ、いま思うと当時は野球部は人気ありましたからね。
とにかく硬球に触りたい、そのためには、なにが手っとり早いかというと、バッティングキャッチャーなんです。これは、汚いマスクで、立ったり座ったりで誰もやらない。これはいいなと思って一回やってみようと思ったのが運のツキ。やったその日、もう帰りの階段、上がれなかったですよ。それが私のキャッチャーの始まり。そしたら松永さんが、「おまえ、キャッチングがうまいから、バッティングもやってみろ」って。そのバッティングでも、たまたま打てたんですよ。
木村― 松永さんというのは、法政大学の監督もなさった松永怜一さん?
田淵― そうです。高校で3年間教わった。法政大学へ入ったら、松永さんも大学の監督になった。これも運なんですよね。
木村― でも大学だと、やっぱり全国から有名選手がいっぱい来るわけでしょ。
田淵― いやあ、甲子園組が多かったですね。甲子園組が合宿所に入れるわけですが、僕ら法政一高時代のバッテリーも合宿に入れた。だけど、松永だから入れてもらったんだろうって。で、一年目から僕はマスクをかぶったんです。
木村― 山本浩二さんと富田勝さんとで「法政三羽ガラス」と言われたときですよね。
田淵― そうです。浩二は、最初はピッチャーで、監督が新人戦で僕とバッテリーを組ませたんです。そのときに「山本に変化球ほうらすな。真っ直ぐだけや」と。そりゃあ真っ直ぐじゃ打たれますよね。で、がんがん打たれて、結局、彼は外野へいったんです。あれ、打たれなかったら、そこそこのピッチャーやっていて、今日ないんじゃない。人間の運っていうのはわからないよね。
木村― 当時の法政は強かったですね。
田淵― まあ何度も優勝してましたし、プロに入ったメンバーもたくさんいます。
木村― 田淵さんは本塁打数で、長嶋さんの六大学新記録を大幅に更新したわけですね。
田淵― 長嶋さんの8本を22本に伸ばした。でも慶應の高橋由伸(現巨人)に29年ぶりに破られましたけどね。
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