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井村雅代

シンクロの名コーチが中国代表コーチに就任。周囲の非難に……

私、国賊? なんで騒ぐの?

 メルボルンから帰国して間もない井村さんに会った。部屋に入ってくるなり、「いやぁー、私、国賊ですよぉ」と明るく言い放つ。中国代表コーチに就任後、井村さんへの非難には相当なものがあった。
 「アテネの前にね、選手っていうのはギリギリの状態で、そういう時はいろいろな人の言うことを聞こうとするんです。立花・武田はいいんです、だけどそれ以外の選手はまだ能力もないのに人の言うことを全部聞こうとするからパニックになるの。練習にいろんな人が来て言うからね。だから、皆さん黙って下さい、何かあったら私に言って下さいってお願いした。それで皆さん黙って下さったんですけど、それが気に入らなかったんでしょうね、アテネから帰ってきたら、「アテネオリンピックはあなたの家内工業やない!」って。結局私が勝手にやっていて、自分たちに口を挟ませなかったという感覚なんでしょうね」。
 シンクロの顔、ある意味で選手以上に目立つ存在だっただけに、狭い世界でのやっかみは付いてまわる。日本のあらゆる組織で見られるよくある現象である。しかし、そもそもなんで井村さんが日本代表コーチを勇退したのだろうか。
 「立花・武田がアテネで辞めることになっていたし、私はあの子たちの選手としての死に水は取るからって言っていたの。だから私も辞めようと思ったし、ずっと私の世界で強化が進んでいた感じもあったから、長く続くと、ちょっと待てよっていう声が絶対上がってきますよ、だから」辞めたという。でもふつうに考えれば、オリンピックでずっとメダルを獲り続け、2001年の世界水泳福岡大会では立花・武田組にデュエットで日本初の金メダルを獲らせた名コーチである。勇退したからといって日本代表チームと無縁になるとは考えにくい。
 「アテネ以後、私は10人ぐらいいる常任委員の一人でしかなかったの。何もなかった。立場も処遇もなし。まあ、肩書だけはJOCの強化スタッフだけど、それも紙一枚だけで何もない。だから私が何をやっていたかと言うと、自分のクラブのコーチをしていただけです」。
 井村さんが海外流出して困るのであれば、それなりの立場を作れば良かったのだが、組織がそう動かなかったのだろう。名コーチの使い方が下手だったということかもしれない。
 「だから中国の人たちも、私がヘッドコーチを辞めて、何か上の立場の監督とかになるんだろうと思っていたみたいで、ところが1年たっても私が表に出てこないから、今どういう立場なんだって聞いてきて、私へのオファーがあった」。
 話を聞いていると、井村さん自身にも不満があったことは想像できるのだが、その口ぶりは実はとても明るい。さばさばしている感じである。
 「非難されることは分かっていました。バッシングにも会うだろうって。自分のクラブの子たちに迷惑がかかったらかわいそうやなって。だから最小限に抑えようとは考えたけど、マスコミがあんなに騒ぐとは思わなかった。なんであんなに騒ぐんですか?」。
 それだけ井村コーチの存在感が大きかったからです。
 そういえば井村さんの経歴の中で、84年ロサンゼルスオリンピックで教え子の元好三和子がソロ、デュエットで銅メダルを獲った直後、所属の浜寺水練学校の専任コーチを打ち切られるという事件があった。その後、苦労しながら井村シンクロナイズドスイミングクラブを立ち上げたという経緯がある。「そういう人生なんやぁ。あの時の方が衝撃」と、これも笑いながらさらり。

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