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湯村温泉

 「夢千代日記」で有名になったこの温泉郷のいたる所にその痕跡が示されていて、このドラマの主役の吉永小百合はいまだに広告塔の役割を果たしている。「夢千代」記念館は別名吉永小百合館といってもいいほど、彼女の写真やポスター、チラシ、それにテレビのセットまでが再現されている。余談になるが、スチール写真の一枚に宴会場のステージにズラリと並んで踊る芸者衆を撮ったものがあったが、その頭上にはなんと「歓迎西脇農協御一行様」と書いた横断幕がぶら下がっているではないか。なんで西脇なの。このスチール写真をMさんに複写してもらって早速市長に送ってもらうことにした。もちろん市長も知らない写真だけにきっと驚かれるだろう。もしこの写真が新聞かテレビに出れば、まさかドラマだと思わない世間から、市長は間違いなくヤリ玉に上げられるに決まっている。何の説明も加えないで黙って、しかも匿名で送りつける。そんないたずらがしたくなった。というのも、ぼくの後輩で昔から親しいからだ。
 前日も西脇でツバメが飛んでいるのを見たが、湯村にもツバメが家の軒下に巣を作って子育ての準備をしている。こんな風景を見たのはもう何十年振りのことだろう。多分東京では見ることのできない風景だと思う。
 今回は前回、前々回のように絵のアイデアが次々と浮かんでくるというような状況ではないのである。困った、困ったと思いながら帰り支度をしてとりあえずタクシーで城崎温泉駅まで行くことになった。途中、深い谷間の上に架かっている鉄橋をぜひ見たいと思った。エメラルド色のきれいな日本海から打ち寄せるダイナミックな波頭を見下ろすようにこの余部鉄橋を山陰本線の列車が通過する。
その瞬間をカメラに収めたいと今や遅しと待機するわれわれ。突然轟音が頭上でしたかと思うと弾丸のように列車が鉄橋を震わせて突進してきた。感動の一瞬でもあった。高所恐怖症の妻はこの電車に乗るくらいだったら今回の湯村温泉行きは遠慮したいという構えだったのが、あまりのカッコー良さに「これだったら乗ってもよかった」と心にもないことを言い出した。だけどそのあと電車のデザインや色がよくないと批判を始めた。
 リアス式海岸を蛇行しながら城崎温泉駅にタクシーが着いた。以前来たことのある見覚えのある街並。タクシーの中から「この店で魚を買った、あの店の名前はパリのカルティエ現代美術財団の館長と同じ名前のエルベ」とまだ記憶に新しいのか妻はひとつひとつ指差しながら嬉しがっている。そんな懐かしい気持ちはぼくにもあるが、同じ通りを歩くのはきっと気恥ずかしいだろうなあとふと思った。城崎温泉駅から京都に向かう特急の中でぼくは今回の旅行記を書き始めた。京都駅に着くまでに書く予定だったが、200字を残したところで列車はホームに入った。続きは新幹線の中で仕上げよう。絵のアイデアが浮かばないのでせめて文章でも先に書けばなんとかなるかなと思ったけれどなんとかならなかった。

横尾忠則(よこお・ただのり)1936年兵庫県生まれ。美術家。昨年、パリのカルティエ現代美術財団で個展を開催し高い評価を得た。近著に『横尾忠則Y字路』(東方出版)、『病の神様』(文藝春秋)がある。2006年日本文化デザイン大賞受賞。2007年兵庫県功労者(県勢高揚功労)表彰。現在「横尾忠則温泉主義」西脇市岡之山美術館(~9月30日)を開催。「澁澤龍彦幻想美術館」札幌芸術の森美術館(8月10日~9月30日)に作品を出品。また秋には、ミラノで絵画の個展を開催予定。6月には2001年から自身のブログに書いたテキストを書籍化した『悩みも迷いも……(非常に長いタイトルのため以下略)』を勉誠出版より刊行した。
オフィシャルホームページ http://www.tadanoriyokoo.com

横尾忠則の温泉主義

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