「女=産む機械」の発言もそうだし「なんとか水」の発言もそうだが、いまの大臣というのはどうしてそう簡単に重いものを取り落してしまうのだろうか。
握力が弱い。
というより、緊張感がない。
野球やその他の試合で、むかしは緊張感でがちがちになったものだが、最近はわりと平気な若者が多いと。それはじつにいいことだと思うが、それも実力があってのことで、下手をすると単にだらけたことになってしまう。
原爆=しょうがない、の発言ではそんないろいろを思った。重いことに無警戒で、手を滑らした、いや口を滑らしたわけだが、でも他人が口を滑らしたからといって、それを百パーセント非難できるだろうか。
みんな「原爆=しょうがない」とはいわないものの、その関係に甘んじて戦後生きてきているのだ。
戦勝国のアメリカは、完全に、原爆=しょうがない、と思っているし、そう主張している。いまの日本人はみんなそこで生き残った末に、その事実を飲み込んで生きている。そのことの負い目を潜在的にもっている。自分は戦争を知らないから、そんなこととは無縁だ、というわけにはいかない。歴史というのは原因があって結果がある。
だからこの元大臣を非難するとしたら、重いものに無警戒で、なぜ手を滑らせたのか、どうしてゴムのいぼいぼつきの軍手をはめずに、あっさり素手でやったのか。
ということになる。
以前原発、つまり原子力発電所の中でのバケツ問題があった。細かい専門的なことは忘れたが、危険物質をバケツで出し入れしていたことがわかり、問題となった。それとも似ている。やはり重いものの扱いに関することだ。現場では「慣れ」ということがあり、日常化していた。つまり「しょうがない化」していた。この場合は手を滑らせていたらもっと大変なことになっていたが、しかし国会と原発とどっちが大変か。どちらが重いだろうか。
国会では口を滑らせて大臣が辞めた。原発では手を滑らせる前にそれがわかり、たぶんいまはもう改められているのだろう。
原発=しょうがない、の問題は、改められたかというと、そう簡単なことではないと思う。「しょうがない」の根本を問うなら、相手はアメリカだ。本当はアメリカに向かって、しょうがないとは何ごとだ、ということの道連れに日本の大臣の発言を切る、となるはずが、アメリカには太刀打ちできない。でも日本人のいうことなら、というある種甘えた鉾先転換があるわけで、これは非常に苦しい問題である。戦後日本はアメリカ路線で生きてきたわけで、これは全体のことだから、自分だけ違うとはいえないことだ。もはや戦後ではない、といいながら、ぜんぜん戦後なのである。
「しょうがない」の問題
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