“笑い”に賭けた鶴瓶師匠の人生――
入門、結婚と話ははずみ
話題が鶴瓶噺から落語におよぶと、
師匠の目は輝き、話はとどまるところを知らず……
バラエティのスピードを加味した師匠の落語、恐るべし!
笑福亭鶴瓶 落語家
ちょっと落語にハマって……
(しょうふくてい・つるべ)1951年、大阪市生まれ。本名は駿河学。浪速高等学校卒業、京都産業大学経営学部2年中退。大学では清水國明と原田伸郎によるフォークデュオ「あのねのね」と同期。72年、大学在学中に六代目笑福亭松鶴の許に入門。入門当時から「歌え!MBSヤングタウン」(毎日放送ラジオ)、「爆笑寄席」(関西テレビ)、「金曜10時!うわさのチャンネル!!」(日本テレビ系列)などテレビ・ラジオで活躍。落語家としては02年春風亭小朝の「芸の女神が微笑んだ!」にゲスト出演。翌年、小朝、鶴瓶、林家正蔵、春風亭昇太、立川志の輔、柳家花緑と「六人の会」を結成。2ヵ月に1回「東西落語研鑽会」を開催。また身の回りで起こったことを話すスタイルは「鶴瓶噺」と呼ばれる。今年10・11月には、「第一回落語大秘演會 伊藤園鶴瓶のらくだ」を、東京・歌舞伎座、京都・南座、大阪・松竹座など全国8都市で公演する。
木村― ご活躍で。
鶴瓶― いえいえ、なにをおっしゃいます。
木村さんは、本拠地は大阪なんですか。
木村― 吉本の東京事務所をつくるときに、東京に住民票を移しまして、そのままなんですよ。
鶴瓶― 大阪の匂いがごっつい残ってますな。
僕も東京にマンションありますけど、まだ本体はこっちですからね。でも仕事はほとんど東京なんですよ。いま大阪での仕事は「ヤンタン」(「MBSヤングタウン」、毎日放送ラジオ)と「きらきらアフロ」(テレビ大阪)。「ヤンタン」はもうずっとやってますけど……一時、毎日放送とちょっとケンカしてね、僕。その時、「ヤンタン」やめてたんですよ。間に入ってくれたのはきよし師匠なんです。「なんで鶴瓶君出えへんねん、毎日放送に」と。なんかうわさ聞いたんでしょう。で、きよし師匠がなんか座もってくれて、そのおかげで「ヤンタン」をまたやるようになったんです。
木村― 西川さんなんですか、縁をとりもったのは。
鶴瓶― そうです、きよし師匠ですよ。吉本の人間が、それもマネージャーじゃない人が間に入ってね。不思議ですよねぇ。
木村― でも鶴瓶さんは、なんか松竹芸能っぽくないキャラですよね、もともとが。
鶴瓶― もともとがそうですね。もともと僕、「爆笑寄席」(関西テレビ、1970年頃から放送)出身ですからね。ほとんど吉本制作のなかで、当時のプロデューサーが、なんか僕を選んでくれはって。そのときに木村さん、多分いてはったと思いますわ。
木村― そうですよ、何回も誘ったじゃないですか、吉本においでって(笑)。吉本のなかになぜか、鶴瓶さんがレギュラーでいたんですよ。それで全然違和感なかったし……
そもそもなんで京都産大に行こうと思ったんですか。
鶴瓶― いや、もともと僕は大阪の浪速高校におって、まあやんちゃな高校ですわね。で、そのやんちゃな人たちは近大にいきよるんですよ。一回そこで決別しないと、ややこしいことになるやん。ほんで、近大と同じぐらいのレベルの産大へいったんですよ。
木村― なるほどね。大学では「あのねのね」と一緒ですね。
鶴瓶― そうです。「あのねのね」のデビュー曲の「赤とんぼの唄」のネタは、上方漫才のネタなんですよ。僕、ああいうの好きやから、それしゃべってたら、歌にしよって。レコードをつくるいうんで、僕のところへ電話かかってきて、「どんな小咄ある?」とか言うたりしてきましたよ。で、江戸小咄をちょっと言うたらそれが歌になる。
木村― 一緒にはいってデビューするということはなかったんですか。
鶴瓶― いや、僕はぜったいおちぶれる思うたんですよ、歌は(笑)。歌はいっときのものでしょ。でも、すっごい売れよったんです。信じられんぐらい、そりゃあもう。ほんで「うわチャン」(「金曜10時!うわさのチャンネル!!」1973年から日本テレビ系列で放送)までいって。で、「おれたちよりずっとおもろいやつおる」言うて、僕を紹介してくれて、「うわチャン」出るようになったんですよ。
木村― なるほど、ちゃんと恩は返してくれたわけですね。
鶴瓶― そうそう。「あのねのね」っていうのは、やっぱり学生のノリでずうっといけてた。大学のノリでずうっと人生が過ごせたらこんな幸せなことないですよね。
木村― それはそうですよね。
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