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菅原文太 俳優

74歳 いろんな人間を見たね

(すがわら・ぶんた)1933年宮城県仙台市生まれ。仙台第一高等学校から早稲田大学法学部中退。56年『哀愁の街に霧が降る』(東宝)でデビュー。新東宝、松竹へ移籍後、俳優の安藤昇さんに勧められ、67年東映に移籍。69年『現代やくざ与太者の掟』で初主演。73年からの深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズで一躍スターに。『新・仁義なき戦い』シリーズ、75年からの鈴木則文監督の『トラック野郎』シリーズ(一番星・星桃次郎役)の大ヒットで70年代映画界トップスターとなった。その後、『千と千尋の神隠し』での声優もこなすなど、幅広く活躍。近年は農業にも関心を示し、講演活動も行っている。

戦後のどさくさこその自由を懐かしみつつ、その後の日本の変わり身の速さを憂える―
穏やかな話しぶりのなかにシニカルさと反骨が覗く。
銀幕のなかのアウトローは、「演じた」というより菅原文太その人だったのかもしれない。

木村― 菅原さんはお生まれは仙台で、仙台一高を卒業なさってるんですね。いい学校だったようですね。

菅原― 頭のいいのが多いなんて言われていたんだけど、いま年取った同級生を見ると、あんまり頭のいいやつはいないよね。おれが行ってた頃は、まだそんなに受験校でもないし、わりとバンカラな自由放任主義の学校だったね。それはどうも明治の開校以来の伝統らしい。やりたいことは生徒が自主的にやりなさいというちょっと珍しい学校。だから運動会もなきゃ、修学旅行もない。文化祭とかそんなのも、やりたきゃ自分たちでやんなさい。演劇なんかも好きなやつはやんなさい、学校は関係ないと。

木村― それから、大学は早稲田へ行かれた。

菅原― 入学できたというだけで、ほとんど学校へ行かなかった(笑)。

木村― で、在学中にファッションモデルにスカウトされたとか。やはりカッコよかったんでしょうね。

菅原― いやいやスカウトじゃない。とにかく食えないもんだから、いとこに「なんか、仕事ないかよ」と頼みに行ってね。いとこが「知り合いが国際羊毛の事務局にいるので話しておく」と言うので行ってみたら、「あんた、これ着て」なんて言われてね。毛糸の編み物の宣伝に写真を撮られて、そんなことが始まりだよね。

木村― けっこうお金にはなったんですか。

菅原― いやたいしたことないね。肉体労働なんかに比べれば、いくらかマシなだけで、そんなに食えるほどの収入はなかった。

木村― 大学は何年で中退されたんですか。

菅原― 中退というか……別にこっちはしたくなかったんだけど、やめさせられた(笑)。悪いことしたわけじゃないんだよ。授業料滞納で……1ヵ月分納めて、あとは納めなかったんだから、2年目で除籍になっちゃったね。

木村― 当時は、何をしようということは別になかったんですか。ただただ東京へ出ようということだったんですか。

菅原― そうだね。高校を出たのが昭和27年かな。当時の仙台というのは、いまみたいに100万都市じゃなくて、人口22万ぐらいの地方の小都市にすぎなかった。その頃は朝鮮戦争でドンパチやっているし、ごちゃごちゃしてたからね、まだ。ここにくすぶっているのはどう考えても……

木村― ご両親は、東京へ行きたいなら勝手に自分の甲斐性で行け、ということですか。

菅原― 自分の甲斐性で行くんなら行ったらいいんじゃないの、仕送りはできないよ、仙台にいるんならメシは食わしてやろうと。だけど、メシ食わしてもらうだけじゃ……(笑)。

木村― それはそうですよね。いまの親とはずいぶん違いますよね。

菅原― うちの親だけじゃなくて、あの頃の親はみんなそうだったんじゃないかな。

木村― そうですよね。でも東京へ来てみたら、仙台の頃に抱いていたイメージとはずいぶん違いましたか。何をやろうということは別になかったんですか。

菅原― 何をやろうというより、仕事がまだほとんどないときだからね。焼け跡の名残だね。新宿の西口なんか、カストリ酒場がずらっと並んでいたし、東口もテキ屋の親分のやっている市場があった。ごちゃごちゃしてた時代だから、いまの若い子みたいにタレントになろうとか、歌手になろうとか、サービス業へ勤めようとか、そんなもの何もないんだから。
 それでも、日本は切りかえが早いのかな。昭和20年に戦争に負けて、その年に、新劇は公演を始めるし、松竹は『そよかぜ』なんていう映画を撮り始めている。負けてしゅんとしているかと思うと、きのうまで軍国主義で「撃ちてしやまん」なんて言っていたのが、途端に左翼になってマルクシズムなんて言い出したりして、不思議な国民だね。

木村― 終戦の年はおいくつだったんですか。

菅原― 12歳、小学校卒業の年だね。

木村― 小学校の教科書なんていうのは当然そういう教育ですものね。

菅原― ああ、もう「撃ちてしやまん」、「鬼畜米英」。

木村― 「進め一億火の玉だ」とか言って……

菅原― 最近になって、また言いたくなってきたよ、「鬼畜米英」(笑)。

木村政雄編集長 Special Interview

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