最近は買い物をあまりしなくなった。シャツやセーターも、今年はぜんぜん買わなかった。去年もぜんぜん買ってない。
靴はこの間買った。足の状態というのはけっこう微妙なもので、履きにくくなるとどうしても買うことになる。でもセーターなんて足みたいに痛くはならないし、いつまでも着ていられる。あまり伸びきったり、毛玉だらけになったものはゴミに近づいていくが、でも家にいるときはゴミに近いものが着心地もいい。安心して着ていられる。
外に出かけるときはそれなりにこざっぱりとしなければと思うが、それも昔ほどは思わない。少しくらいゴミでもいいか、と思ったりする。
それに最近のファッションはゴミ志向になってきている。Gパンをボロボロに穴だらけにして、あれを実際には高い金で買うんだそうだ。ボロぐらいそこいら辺にあるのに、それさえも買うというのは、ある意味、金額依存症みたいなものがあるんだろう。これはボロなんかじゃない、表現なんだ、ということが金額で保障される。その保障があって着ているらしい。
自宅での自分のボロは、それとは違う。格好の問題ではない。表現などではなくて、本当にゴミ寸前の衣服である。それがいちばん気が安まる。お金からいちばん離れた世界だ。お金からの最長不倒距離で、まだかろうじて穴が開いていないから着られる、という世界である。
だから穴が開いたら困る。寒い。そこがファッションの痩せ我慢とは違う。自宅でのボロは、どちらかというとホームレスに近い。自宅内ホームレスといえばいいのか。だって痩せ我慢する必要がないんだから。
そんなわけで買い物はしなくなった。カメラだって、いまはデジカメだから、買ってもどうせすぐ新型が出ると思うと、買う気にならない。いずれそのうち、と思う間にどんどんデジカメが安くなり、世の中にたくさんあふれて、そうなるとよけいに、まあ買うこともない、という気持になってくる。
買い物は嫌いじゃない。物欲というのはある。それと同時に、好きな物を買ったときには、金を使ったという快感もある。体のことでいうと、排泄時の快感みたいなものだ。カメラを貰った、となればもちろん嬉しいが、同じカメラでも、考えた末に買った、となると嬉しさも違う。嬉しさに推進力がつくというか、自分の体重がその推進力に弾みをつけるような感じが生れる。
自宅ではゴミを着ている
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