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「老境時間」の温泉旅行

 時の経つのも早いもので、温泉巡りをはじめてすでに二四ヵ所、二年も経った。この企画を受けた当初は、温泉なんて老人の趣味で、自分はまだまだと思っていたが、そのうち古稀を迎えることになり、ついに隠居宣言までしてしまった。温泉は老人の必要不可欠事象として、今では何の違和感もなく温泉=老境を愉しんでいるこの頃になってしまった。
  隠居宣言のことは、この紀行文の中で触れたかどうかはっきりした記憶がないが、これからの生き方として、なるべく他人の支配を受けないという姿勢をどこまでつらぬくことができるか、また生活の芸術化ではなく芸術の生活化にどこまで「三昧」になれるかということを関心の対象にしようとしているのである。そのためにも健康最優先をモットーにしたいと考えている。温泉は健康になるか否か。必要以上に温泉に長時間入らない限りは健康になると思う。ぼくみたいにドボン、サッと上がる入浴は味気ないと思う人があるかもしれないが、この入浴法がぼくにとっては一番健康的であると思っている。すでに何度も書いたが、初日の入浴は三分が理想らしい。たった三分で半年以上苦しんだ神経痛が治ったんだからなにも長湯することはない。だけどぼくのようなカラスの行水的な温泉客はほとんどいないと思う。一泊旅行でも二回、多い人はそれ以上入るかもしれない。だが、老人があまり何度も入ったり、長湯するのは危険である。
  老人、老人とぼくは最近口癖のように言うが、内心はちっとも老人だとは思っていないのである。隠居は江戸時代なら四〇代でなるのが一般的で、隠居=老人という考え方は間違っている。だけど体は間違いなく日々老化しているのは事実である。生涯現役を主張する人は多いが、ぼくは老人とか隠居という言葉を発することで、老境という人生のラストスパートをスパートしないでゆっくり辺りを見渡しながら、自分の好きなことだけに時間を使っていきたいと思っている。この時間を老境時間と呼んで、六〇代以前の時間と区別して、かつては味わうことのできなかった時間の底に体をソーッと浴槽に沈めるようにして、自分の内と外を観察してみたいのである。
  以前にも書いたかと思うが、温泉旅行は能によく似ている。旅の者(能では僧侶)がどこか未知の土地に行く。そしてそこで見知らぬ人に遭う。その見知らぬ人の身の上話を聞かされるが大抵はこの人は亡霊である。ワキである旅の者と亡霊のシテの間に異界が現出するが、旅先で出合う人々や歴史や記録は、ぼくにとっては異界のようなものである。そしてこの旅から帰ってきてシテが語った事柄をビジョン化して温泉絵画なるものを描いているのである。この絵はぼくにとっての「遠野物語」のようなものだ。ぼくにとって絵を描くということは、どれだけ多くの「遠野物語」をぼくの中にストックするかということでもある。

横尾忠則の温泉主義

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