10月半ばとなれば北風が吹き始め、冬の気配さえ感じる。こんな日には温泉に限る。行くなら温暖の地がいい。熱海は新横浜駅から「こだま」でたった35分。どうして東京とこんなに気温の差があるのかと思われるほど暖かい。
厚手の背広の下にウールのシャツとセーター、さらにロングコートにマフラー。たくさん着込んだので、下着が汗ばんでくるのがわかる。周囲を見渡しても、こんな真冬の出で立ちをしている者はぼくの他にいない。たいていの男性は背広にネクタイとシャツだ。だけど寒がり屋のぼくは、世間の常識に合わせた格好では、間違いなく風邪を引くにきまっている。でなくても今年はインフルエンザの流行の兆しがあるという。
さて、熱海は観光客が絶えて久しいと聞いている。別府と並んで新婚旅行のメッカは今や海外にそのお株を奪われてしまって、どこの旅館も閑古鳥が鳴いているという噂に、ぼくはあまり期待をかけずにやってきたが、思ったより人出もあって、閑散とした印象はない。
「今日は日曜日で花火大会があるので人出が多いけれど、ふだんは淋しいもんです」とタクシーの運転手は投げやりに言った。すでに12時を過ぎていたので、まず腹ごしらえをしてからMOA美術館の「サーカス」展を観に行くことにしたが、観光ガイドブックに出ているお目当てのレストランには行列ができていて入れなかった。結局あきらめて美術館の中のレストランで食べることにした。そのあと「サーカス」展を観たけれど、各美術館から集められたサーカスにちなんだコレクションは変わりばえのしない作品ばかりで、早々にホテルに入ることにした。てっきり海岸線に並んでいるホテル街のどこかだろうと思っていたら、熱海城の建っている岬の先端にあるホテルニューアカオだとMさんが指を差した。
「われわれの泊まる所は新館ですが、夜の花火大会は特別の部屋を取ってもらった本館から見物することになります」とMさんが言っているうちに、タクシーはホテルの前に止まった。南フランスのリゾートホテルのポスターに描かれているような、肌色の壁にグリーンのラインの入った建物だ。車から降りるなり、「横尾さんですね」と後ろから声を掛けられて振り向くと、このホテルの赤尾信幸社長とその夫人であった。さっそく錦ヶ浦に広がる海を望む半円型の段差のある広いラウンジに案内されて、社長さんからホテルの沿革について一通り説明をしていただいた。
このホテルが所有するリゾートエリアは東京ドームの7倍に相当するという。錦ヶ浦一帯をアカオリゾート公国と呼ぶ。ロイヤルウイング(新館)とホテルニューアカオ(本館)を拠点に、さまざまなホテルの関連施設などが岬の先端や山の斜面を利用し、海を借景にして配置されている。マネージャーの加藤氏と庭師の方にハーブ&ローズガーデンや盆栽庭園などを案内していただいた。盆栽庭園には巨大な盆栽がいくつも植わっていて、まるで舞台の上で歌舞伎役者がオーバーなしぐさでミエを切っているような格好の盆栽に思わず大向こうから声を掛けたくなる衝動にかられた。またすり鉢状に設計されたハーブ庭園の植物にはハッカの味、カレーの味、わさびの味、砂糖の百倍の甘さを持ったハーブなどが無数にあり、そのひとつひとつを口の中で試すことにした。決してカレーやわさびの原料ではないのに味がそっくりで、これはまさに味の擬態だと思った。
ハーブ庭園でアイスクリームを食べたぼくと妻はエステに行くことになった。レストランにしてもエステサロンにしてもそれぞれ海に突き出した場所にあった。そこまで車で案内されたが、残念ながらこの日はエステが満室でMさんはエステに参加できなかった。ぼくはエステの経験は二度あるが、妻は初めてだというので、興味津々であった。エステが終わったあと、Mさんは妻を見て少女のように若くなったと冷やかすものだから、彼女は自分でも「きれいになった、きれいになった」とはしゃいでいた。
夕食は和食レストランに案内された。その後、8時20分から花火大会があるので本館の特別に用意された部屋で見物することになった。ここから眺める熱海の夜景は「まるでモナコみたいだ」と、モナコには行ったこともないMさんと、たまたま熱海に来ていたという彼が誘った後輩の女性二人がはしゃいでいるが、モナコを知っているぼくは「こんなもんじゃないよ。100倍以上のスケールだよ」とちょっと自慢してみせた。熱海の夜景を背景に次々打ち上げられる花火ショーは、いちいち感嘆の声を上げるほど素晴らしかったが、ぼくと妻はベニスでゴンドラに乗ってもっとすごい花火を体験しているだけに、どうしてもそちらと比較してしまう。
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静岡県 熱海温泉
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