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由紀さおり 歌手

〝自分の歌〟を探して……

「夜明けのスキャット」の大ヒット

木村― お生まれが千葉の木更津とうかがいましたが、育たれたのもそうなんですか。

木村― ところで「由紀さおり」という名前はどこから来たんですか。

由紀― それはね、当時「夜のバラード」(TBS系)というラジオ番組がありまして、ラジオを聞きながら受験勉強する人たちからの投書が一日で段ボールいっぱいになるぐらいの人気番組だったんです。それで、この番組のテーマ曲をシングルとして出すことになったんです。

木村― それが「夜明けのスキャット」ですね。

由紀― ええ。それがとんとん拍子に進んで、翌年の三月には発売ということになったんですけど、そのときに私の名前をどうするかということになったんです。そのとき、結婚することは内々でわかっていましたから、どうせ名前が変わっちゃうんだから、まったく新しい名前を考えようということになったんですね。
 作曲のいずみたく先生が、色が雪のように白いから「雪」というのはどうかと言ったら、うちの母が、「雪は溶けてなくなるから、ふさわしくありません」と(笑)。当時うちの母は、着付けをやっていたので着物の本をいっぱい読んでいて、「雪」ではなく結城紬の「結城」、名前も沙に織るということから「沙織」はどうかということで「結城沙織」、ちょっと重いので、最終的には「由紀さおり」となったんです。

木村― 20歳のときですよね、「夜明けのスキャット」がヒットしたのは。いきなりミリオンセラーになったわけでしょう。

由紀― そうです。

木村― やっぱり変わりますよね、周りの扱いというのも。

由紀― そうですね。いずみたく先生のところにもプロダクションがあったんですけれども、うちの母は、やっぱり一度私が挫折していることもあって、私の事務所をまずつくってくれたんです。

木村― 音楽事務所をつくられて、お母様が社長になられたんですね。

由紀― ええ。でも社長になっても、「ステージママがしゃしゃり出て」とか、いろいろなことをおっしゃった方もいますけれども、いまになってみれば、母親が守ってくれて、父親が応援してくれ、当たり前の暮らしをきちんとしていたということが強みですかね。

木村― そうですね。20代はいわゆる流行歌手で、紅白にも10年連続でお出になった。

由紀― ええ、出ました。「夜明けのスキャット」で流行歌手になって、ヒット曲はもらったけれども、じつはやっとスタートラインに立つことができたということがわかって、なんだか足が立ちすくんじゃう思いでした。
  2作目の「手紙」という歌がヒットするんですけれども、これは歌詞のある歌だったので、これでキワモノにならないですむと思いましたし、これでなんとか私はこの業界に残れるかなと思いました。

木村― ところが30代になってちょっと運命が変わるんですね。

由紀― そうですね。結婚生活が破たんすることになるんです。私のエクスハズバンド(前の夫)は、コマーシャルのヒット曲をたくさんつくった人ですから、自分のテリトリーの中で私を育てたいと思ってくださったんだと思うんです。ところが、私は2曲目がヒットし、音楽番組にどんどん出演するようになると、彼はどんどん自分のテリトリーから離れていくという苛立ちみたいなものを感じたのかもしれませんね。
 20代の後半から30代の頭って、女としていちばん中途半端なときなんですね。若くはないし、かといって大人でもない。それでもある路線に乗っているときはいいんですけど、そういう路線からも外れていくと、次に自分はいったいなにをしたらいいのだろうと。
 流行歌の世界というのは時代をキャッチして、いち早く自分に取り込んでいかなければいけない音楽業界ですから、それがやっぱり自分には向いてない季節だったんだろうと思うんですね。ほんとに私に似合う歌ってなんなんだろうと思い悩みました。

木村政雄編集長 Special Interview

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