水上温泉に行くことになった。年末なのであまり遠出はしたくなかった。上越新幹線で一時間ぐらいだったが、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とはうまいこと言ったものだ。真っ暗な世界がいきなりパッと白一色に変った瞬間は軽い目まいさえ感じ、声にならない声をあげた。列車はそのまますべり込むようにホームに入った。そこは上毛高原駅だった。バラバラとかなりの人数の乗客がホームに吐き出された。ところがそんな乗客はどこに消えてしまったのか、駅前のタクシー乗り場にはわれわれ以外に人の姿はなかった。
雪が積っていたがいつ降ったのかを運転手に聞いてみた。
「降ったのは昨日だけれど、こんなので驚いていちゃダメですよ。降れば五〇センチは積るからね」といいながら、タクシーは水上温泉に向かった。水上温泉には何度か来ているが、記憶の痕跡はまったくない。画家の眼なんてじつに頼りないものだ。観察する意志がなければ、何も見ていないのと同然だ。この点小説家はしたたかで、事物を言葉に置き換えるためにやたらと脳を働かせるので記憶装置はフル回転するのだろう。画家はキャンバスに向かう時以外はボヤーッと無心で心を休めているので、何も見えていないのだ。(まあ、すべての画家には当てはまらないけどね)。
左右の山がグーッと迫ってきて渓谷に入ってきたのがわかる。渓谷を流れる川は谷川岳を源流とする利根川だと、運転手は説明する。利根川といえばてっきり東京湾に流れ込んでいることとばかり思っていたが、あとでMさんに「隅田川と間違っていらっしゃるのではないでしょうか」といわれて、はたと気がついたが、何にでも源流があることを改めて認識して、ふと自分史の源流を遡っていく感覚に襲われた、と感じたあとだったので、この感想はそのままイキにしておこう。だんだん迫ってくる前方に見える雪の谷川岳は、空の白と溶け合ってその全貌がつかめないままタクシーは旅館に近づいていった。
とりあえず荷物を旅館にあずけて、腹ごしらえに通りに出ることにした。途中の水上郵便局で日付入り風景スタンプを捺印して、ついでにミッキーマウスの年賀状を四〇枚買う。来年はぼくの干支だ。タクシーの運転手が二番目に推薦したそば屋に行く。一番目は、そば十割のパサパサしたそばで、運転手の好みだそうだが、ぼくは苦手だ。二番目の店はうんと小さい店で入った時は超満員(といっても一〇人たらず)だったが、入れ代りに空っぽになってしまった。運ばれてきたそばはピラミッド状の大盛そば。「待っていただいたので大盛にしました」といって出されたが、あとで聞いた旅館の仲居さんの話では、あの店は大盛で有名らしい。一見さんには、いつもこういって出すのかもしれない。
戻った旅館のロビーは、その先が見えないほど奥が深い。右手の大きいガラス戸からは利根川の渓流が見える。ベッド付きの部屋を希望したものだから通された部屋は広く、なんと天皇陛下ご夫妻がお泊まりになった部屋であった。右手には全貌を現した真っ白の谷川岳、眼下には渓谷と土日のみ走るというSLの線路とトンネルが見える。上毛高原駅界隈に比べたら、ここの雪はもう少し分厚い。まだ早い午後だけれど、ここの名物の水晶風呂に入ることにした。今日の泊まり客は一〇〇人ばかりと聞いていたけれど、入浴客はぼく一人だ。水晶風呂といっても水晶でできた風呂ではない。ただ名称を借りただけかもしれない。同じように名称を借りたカラオケ部屋があって、そこは「ひばり」と「裕次郎」と名付けられていた。
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群馬県 水上温泉
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