今日はドボンと入ってサッと上がるスタイルを止めて、貝原益軒方式の半身浴にした。全身浴は水圧で心臓や肺に負担がかかりすぎる。ぼくは高血圧や動脈硬化ではないが(以前足の動脈血栓になったことがあるが)、時々不眠気味なので心臓に負担をかけたくない。湯舟に下半身だけ沈めて一〇分もするとジワジワと汗がにじみ出して、やがて体の表面を這うように汗がポタポタと流れはじめる。そこでサッと湯舟につかる。
現代人はストレスに悩まされている。交感神経と副交感神経のアンバランスから起こる症状だ。ストレスは交感神経が高まった状態だから、リラックスすることで副交感神経にスイッチを切り替えればいい。入浴も入り方ひとつで健康にもなるが害になることもある。怖いのは脳卒中である。いきなり熱い湯に飛び込むと事故になりかねないので注意が必要だ。入浴は確かに副交感神経のためにはいい。入浴に限らず温泉旅館でボーッと休養することは自律神経の休養にもなる。日常から離脱した時空に解き放たれて感覚が再び翌日の仕事の現場で生かされるかと思うと、月一回の温泉旅行は心身に優しいことをしていることになる。入浴のあと部屋に戻る途中にエステ・コーナーがあったので夕食までエステをしてもらうことにした。とりあえず足を中心にしてもらう。足は第二の心臓というので足をしっかりもみほぐすことで全身の血液のめぐりがよくなる。本当にそう感じた。夕食後は再びエステで今度は頭、首、顔を中心に胸、背中をオイルマッサージしてもらった。たっぷりオイルが擦り込まれていく感触は肉体的であると同時に精神の内部にまで浸透していくように思えた。
水上温泉周辺には見るべきものは特になかった。だから以前何度も来たことのある奈女沢温泉の「釈迦の霊泉」に行くことにした。三十数年前によく行ったことのある湯治場だ。温泉といっても小さい(本当に小さい)風呂があるだけだが、ここに行く目的は温泉の他、この地から湧き出る霊泉を飲むことが目的で来る人が大半である。ぼくがここを知ったのは、わが家族写真を三十数年間にわたって撮り続けてくれていた銀座松屋のフォトサロンの安河内羔治さんのすすめで一緒に来たことがきっかけだった。
国道から脇道に入っていくと山道になっている。以前は確かまだ未舗装の道だったが、いつの間にか舗装されていた。だけど相変らずぐねぐねした道には変わりなかった。そんな山道の突き当たりが釈迦の霊泉で、以前とちっとも変っていないように思えた(少し建物の数が増えたかもしれない)。ここの経営者の奥様は霊能者で今では立派な釈迦堂もでき、以前のように気軽にお会いするようなこともできないほど御高齢者になっておられた。息子さんもここを離れて別の土地に住んでおられたが、電話連絡が取れて、たまたま近くに来ているというので車で駆けつけてこられた。当時、彼(今井基支)は彫刻家だったが現在は陶芸家として教室を持っておられるようだった。風呂に入るようすすめられたが霊泉をたっぷり飲んで帰ることにした。帰京した翌日、霊泉がたくさんわが家に送られてきた。
その数日後、不思議というか奇縁というか、今井さんが車の中から成城の街を歩いているぼくを見かけたといって、自宅に電話があった。何でも成城に知人がおられ、時々来られるそうだ。そのことはお会いした時に聞いていたが、まさか三十数年ぶりに会った数日後にぼくの姿を(ぼくは気づかなかったが)間近で見たという今井さんはきっと驚かれたことだろう。いずれにしても正月明けに会う約束をして帰ってきたわけで、その前に予告編のような形ですれ違ったようだ。こんなことにぼくは一種の物語りを感じるのである。すでに終った物語りだと思っていたが、じつは物語りの水脈はこんな風に続いていたのだった。
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静岡県 熱海温泉
横尾忠則(よこお ただのり)1936年兵庫県生まれ。美術家。2006年、パリのカルティエ現代美術財団で個展を開催し高い評価を得た。「文学界」(07年9月号、08年1月号、2月号)に小説「ぶるうらんど」を発表。2月より以下のような個展が開催される。スカイ・ザ・バスハウスで「横尾忠則の壺」(2月1日~3月1日)と「横尾忠則ふたつめの壺」(3月7日~4月5日)。西村画廊で「横尾忠則 温泉主義」(3月11日~4月12日)。また、世田谷美術館(4月19日~6月15日)、兵庫県立美術館(6月28日~8月24日)でも大規模な個展が予定されている。 http://www.tadanoriyokoo.com
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