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広島県 宮浜温泉

 厳島神社を少し離れた所から眺めると背後の弥山【みせん】の原始林も含めてこの辺り一帯がまるで盆景のように見えるのだった。時間がなかったのと寒いために、というよりロープウェイが苦手なために、弥山の頂上から見下すことはできなかったが、もしそれができれば眼下に見る厳島の光景はさぞや絶景であったろうと想像しながら船着き場に急いだ。宮島に着いた時に立ち寄った郵便局で女性に声を掛けられた。地元の人らしく、お土産店の裏通りにはギャラリー付きの茶房があると教えてくれたので、その裏通りを歩く。仕舞屋の並ぶ路地の間から五重塔が凛とした姿で頭上からわれわれを見下ろすように建っていた。教えられた茶房があったので、中に入るとまもなくして件【くだん】の女性が訪ねてきて、「やっぱり来られたんですね」と言った。派手な格好をしたこの女性は宮島で生まれ、ここから外に出たことがない、だから宮島のことならなんでも知っているという。この女性はきっと宮島の名物女性に違いない。お店でサービスにいただいた焼きたての温かいもみじ饅頭はなかなか美味しかった。
  対岸の船着き場には今夜宿泊する宮浜温泉の石亭の社長さんが車で迎えにきてくれていた。宮島で体が冷え切っていたので、一刻も早く温泉に入りたかった。玄関で出迎えを受けた数人の接客係は全員が黒いスーツの背の高い女性ばかりで、この和風旅館との不釣り合いが逆に高級感を抱かせた。玄関に足を踏み入れ、ロビーに立つなり足の裏を刺激する床にぼくは興味を惹かれた。足の位置を変える度にコトコトと足裏で音がした。見ると、黒い木煉瓦が無造作に敷かれていて、その隙間で木がぶつかる音を聴いたのだった。瀬戸の海を前景に広い庭園をコの字形にぐるりと囲むように建物が配置されている。ぼくが通された部屋はロビーから一番遠く離れた「大観」と名付けられた、名の示すように大きい部屋で、庭に突き出すような高床式の離れであったが、なんでも敷かれた畳の枚数は四三枚とか。襖で仕切られた二間からなり、庭に面した二方には広い廊下があって、そこからロビーのある方を眺めると、後方には母屋の二階が見え、部屋の客人の動く姿が影絵のように見えた。向こうからもきっとわれわれの姿が見えているのだろう。
  さあ、とりあえず暖を取るために風呂に入りたい。一番端の部屋なので風呂まで寒い長い廊下を渡らなければならない。風呂は想像以上に狭く、一人または二人しか入れない小さな湯船が二つ、ガラス戸の向こうには露天風呂があるらしいが、この寒さじゃ入る気がしない。たまたま開いていたので、ぼくは一人用の浴槽につかる。大きめの棺桶に入っているような感じで妙に気分が落ち着いたが、それにしても洗い場が狭すぎる。
  夕食時には、驚くほど多彩な料理が次から次に運ばれてきて、その都度、感嘆の声が上がるのだった。ぼくは牡蠣があまり好きじゃなかったが、さすが本場の牡蠣だけあって、牡蠣がこんなに美味いものかと初めてその味を見直した。
  この日は終日まるで夕方のように空がどんより曇っていて寒い一日だった。翌朝も前日と変わらない天候で、いつ小雨がぱらついてもおかしくないような曇日和であった。出発前に庭に面したライブラリーで社長さんと語らいながらモーニング・コーヒーをいただいた。庭の大きい池にはたくさんの緋鯉が岩陰に頭を突っ込んで動こうとしない。なんでも冬眠しているらしく、冬眠中はエサを与えないので岩の下から水と一緒に流れてくる虫を待ち受けているらしく一個所に頭を揃えて集まっている。社長さんの説明によると、一〇屋ある建物はつねに改造されているそうだ。次回来ると、同じ部屋でも様子が変っているかもしれない。以前、サンフランシスコの近くにあるウィンチェスター・ハウスに行ったことがあったが、この家はあの有名なウィンチェスター銃を作った人の夫人の家で、「あなたは一生家を建て続けていなければ死にます」といわれたために増築を繰り返し、とんでもないおかしな家を造り上げたが、社長さんの話を聞いて、ふっとこんなことを思い出したのだった。ひとつひとつ造りが異なるので、できればいろんな部屋に泊るのも愉しいだろう。そういう意味で結構リピーターの客が多いと聞く。
  旅館の人たちに見送られながら、タクシーに乗って次の目的地秋芳洞に行くために新岩国駅に向かう。

横尾忠則(よこお ただのり)1936年兵庫県生まれ。美術家。2006年、パリのカルティエ現代美術財団で個展を開催し高い評価を得た。「文学界」(07年9月号、08年1月号、2月号)に小説「ぶるうらんど」を発表。2月より以下のような個展が開催される。スカイ・ザ・バスハウスで「横尾忠則の壺」(2月1日~3月1日)と「横尾忠則ふたつめの壺」(3月7日~4月5日)。西村画廊で「横尾忠則 温泉主義」(3月11日~4月12日)。また、世田谷美術館(4月19日~6月15日)、兵庫県立美術館(6月28日~8月24日)でも大規模な個展が予定されている。 http://www.tadanoriyokoo.com

横尾忠則の温泉主義

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