ぼくの記憶を凌駕して秋芳洞の巨大さに今さらのように驚愕した。エレベーターで地下七〇メートルまで下りた所はすでに洞窟内であった。あまりに広大な空間なので七〇メートルの地底にいる感覚というより、巨大な宇宙船か何かの建造物の内部に立っているという感じで、思わず天井を仰いでしまうのだった。洞窟特有の圧迫感も閉所感もない。むしろ不思議に保護されたような安心感さえ起きてくるのだった。あちこちに奇岩があり、それらにさまざまな事物の名称が与えられていた。例えば、「洞内富士」とか「百枚皿」とか「巌窟王」とか「石灰華の滝」とかで、その近くにあるボタンを押すとスピーカーから説明が流れるのだった。ぼくが圧倒されたのは洞窟内を流れる川が所々でたまって湖水になっているのだが、その湖水の透明度はまるで鏡のようで周囲の岩肌をそのまま水面に投影させており、水面を覗くと天井がそのまま水中に転倒して、今にも映された空洞の中に落下するのではないかと錯覚させられるのだった。洞窟内のあちこちでこのような四次元的現象を体験させられるので、ますます異次元に入り込んだ感じになる。果たして、この洞窟内にどのくらいいたのだろうか。地表に出るなり空腹を覚え、近くのお土産売場の片隅のレストランで昼食を取ることにした。この頃から小雨が降ってきたので、急いで待たせていたタクシーで秋吉台に行くことになった。秋吉台はなだらかな起伏が波のようにどこまでもうねりながら続いていた。丘陵のあちこちには岩がいくつも突き出しているが、別にどうってことのない眠くなりそうな無感動な風景に見えた。
この日の宿泊は湯田温泉で、石和温泉同様、街の中にある観光旅館で、辺りの風情を楽しむというような雰囲気ではなかった。われわれを迎えてくれた「西の雅 常盤」旅館は団体客が多く、やたらと館内の装飾が目立って、どことなくザワザワした感じで、自分が別の人種になったような気分に襲われた。食事前に温泉に浴したのだが、この文を書いている時点でどうしてもその状況が思い出せないので、肝心の温泉についての記述はパスするしかない。それもこれも、この夜催された「女将【ルビ=おかみ】劇場」での女将の奇妙奇天烈なショーがきっとぼくの脳味噌の秩序だか順列の配列だかを狂わせてしまったために、温泉の記憶は無意識の底の底に沈められてしまったらしい。
「女将劇場」。まあ、女将の普段のお稽古の踊りの成果でも見せられるものだと想像していた。それが悪夢の幻視。それにしても、よくもまあこんなこの世ならざる無礼極まりないショーを人様に見せられたものだと、その強靱な心臓には呆然としてしまった。われわれ三人を金縛りにさせたあの強烈なネガティブパワーの神秘な波動はナンジャ。まあ湯田では一流の旅館で、その旅館の女将といえばやはり一流ということになろうが、その女将にいかなる悪霊が憑依しているのか知らねど、理性あるわれわれ三人を足留めさせた魔力とはいったいナンナンダということになる。ショーの内容はすでに網膜が汚染されてしまっていたので、いちいち想い出せない。イヤ、思い出すことさえイマイマシイわい。ぼくの奥歯にモノがはさまったような、こんな記述に胸騒ぎのする御仁がおられれば、一度寄ってらっしゃい、観てらっしゃい。ただし、その後遺症の責任は一切負うことはいたしません。それにしても、よくぞまあここまで自我が吐き出されたものだと思わず感心させられた。
悪夢の一夜が明けた次の日はなぜか快適。わが肉体に巣くった内なる悪霊をお払いしなければと、昨晩かかった「気導術」なるマッサージ(?)のせいか、昨夜の現実がまるで幻想のように遠くに見え隠れしている。そんな狂気の女将がチェックアウト時に、いともおしとやかに和服姿でわれわれの前に現われた。もうこの時点では昨夜の女将とは別人で、その横にはご主人がそっと控えて立っておられた。
「あのような奥様だと知りながらご結婚なさったのですか」とぼくは質問をしてみた。
「いえいえ、結婚前はあんな人じゃなかったんですが、だんだん豹変してきたんですわ」
「おかみさん、そうなんですか」とぼく。
「ハイ、だんだんショーの時間が近づいてくると、体中がほてって、ムラムラとなって、興奮してしまうんです」
「…………!?」
頭を一振りして、空っぽ状態になって倉敷に向かう。大原美術館に行くのだ。残念ながら高階秀爾館長は不在。現代美術の常設館は改装中とかで、二七年ぶりで対面できると思った自作にも巡り会えなかったが、常設の名作の数々を観ることで昨夜の悪夢は少しは解消された。倉敷も過去に二、三度訪ねてきているにもかかわらず、美術館も街のイメージも記憶の外側に追いやられたままだったので、何もかも初めて見る風景ばかりのように実に新鮮であった。それにしても、街で買ったかまぼこの味のまずさは天下一品で、今さらのように「名物に美味いものなし」ということわざは見事に裏切られなかった。
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