このままでいいのだろうか、いいはずがない……と世の動きを見て嘆かわしく思い、批判の声をあげても、いざ行動をおこして一石を投じるとなると、市民運動の仲間入りをすることになるのか。いや・起業・という、世直しのために身体を張る自己表現もあるのだ。
東京・池袋駅から東武東上線の急行に一時間ほど乗り、しだいに広がるに鄙【ルビ=ひな】の風景に気持ちを和ませていると、終着駅の小川町(埼玉県)の駅に到着する。駅前の商店街をわずかばかり入った通りに面して「麦雑穀工房【ルビ=ざつこくこうぼう】マイクロブルワリー」があった。「雑穀」にさらに「麦」の文字をくわえて「ざっこく」と読ませるとは「麦」にこだわりがあるようだ。そこは地ビールの醸造工房兼パブである。
店内には客が一〇人ほど腰をおろせるカウンターとビールの仕込み装置(ステンレス製の発酵タンク、煮沸釜など)が設けられている。
「北米には中古の醸造装置を仲介販売してくれる業者がいましてね。ここにあるのはシアトルのセガエンタープライズのビルにあるレストランで使われていたもののようです。一万四〇〇〇ドルで買いました」
と代表の馬場勇さん(昭和二〇年生まれ)は言う。口先が達者で愛想のいい商売人でもなく、そうかといってぶっきらぼうな求道的趣味人でもない。誠実に言葉を発するひとであり、前職は学者であったという。壁に貼りだされているメニューのなかから「雑穀ウィット」(五〇〇円)を飲むと、よくあるクセのつよい地ビールとは異なり、とても口あたりがよく、どことなく幸せな心持ちになる。
「最初、装置を稼働させたが思ったような味が出せず、四苦八苦でしたね。妙だと思ったことは、ひとつひとつ原因を見つけだしてつぶしていくしかなく、改良を重ねるうちに一年が経過し、やっとのことで求める味が完成しました。嫌になって、途中で投げだしたくなったことも一度や二度ではありません」
馬場さんは大東文化大学の経営学部で情報工学の助教授をつとめていたが、七〇歳の定年までに一〇年以上も残して退職、起業した。そもそもは電子工学を専攻し、コンピュータアプリケーションに精通した理系のひとであった。それなのに六〇歳を目前にして、なぜ地ビールだったのか。ひとくちで言うと「仮想現実にひたる生活に疑問を抱いた」ということになる。
まずは大学に勤務している四〇代の後半、移り住んだ小川町の農地を借りうけて、農耕をはじめた。実家は寒村の農家だったので、いささかの経験もあった。「手にふれて実感する体験が重要」であると思ったのが、そのきっかけであった。その後、ゼミの学生にも農作業の参加を呼びかけた。
「百姓はなんでも自分でしなければならない。これは教育の原点でもあるし、教室で教えているよりもいいと思いましてね」
学生たちと農地を開墾したり、種を蒔いたり、収穫をしたり、茅葺【ルビ=かやぶ】き屋根を葺いたり……と毎年三~四回、合同で作業をつづけてきた。ある年、学生の一人が「先生、これ(農作業)をしないと単位がもらえないのですか」と問いかけた。「いや、そんなことないよ」と答えると、次回から学生たちは参加しなくなった。感覚の隔たりを痛感したことが、大学を辞めようと思う動機のひとつになった。
周辺の麦農家が、外国産に価格の面において太刀打ちできず、廃業に追いこまれ、農地が放棄されていく光景も胸を締めつける。馬場さんが生まれ育った農村では麦や雑穀を主食にしていた時期もあった。自分自身が育った・雑穀文化・が衰退していくのはしのびなく、うどんやパンをこしらえたりもしてきた。しかし大学を辞めて農耕生活するにしても、それだけでは社会との関わりが失われ、自己完結型の営みに終始するのではないのか。そのようなライフスタイルを望んでいるのでもない。
さまざまな思いが交差するなかで「マイ・ビール」の発想が湧きだした。そもそもは東急ハンズで売られていたイギリス製の「モルトエキス」に触発された。それを水に溶いて酵母をふりかけると、ビールができあがるという二〇〇〇円ほどの商品である。その原料はなにかというと・麦・であり、それも殻までも活用していると知ってうれしく思った。「モルトエキス」で何度も好みの味を試すうちに、ブルワリー(ビール醸造所)の構想が固まっていく。・雑穀文化・を再興させ、地域おこしもしようと考えての起業であった。

立ちはだかる法律の壁も乗り越えなければならなかった。「酒税法」の規制によると、ビールは年間最低でも六〇キロリットルを醸造しなければ製造許可がおりない。しかし発泡酒であれば六キロリットル以上であれば認可される。そのため発泡酒ということにして免許を取得している。平成一六年四月「おがわ地ビール」が誕生した。
夫の起業に反対だった妻も、自然農法で収穫した麦や野生酵母によるパンづくりに関心を示し、いまでは店内で精を出す。そして馬場さんにとってなによりも心づよいのは、食品関連の会社に勤務する娘婿が、この事業を引き継ぐと言ってくれたことである。後継者が名乗り出るということは、若い世代にも魅力ある起業であったのだ。
《中山間地の田畑を復活しましょう。空いている田畑で麦や雑穀を栽培しましょう》
とホームページで訴え、共感する人たちには《麦や雑穀の種、穀粒をさしあげます》という言葉が添えられていた。
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(かとう・ひとし) 1947年、名古屋市生まれ。72年、早稲田大学政治経済学部卒業。![[ファイブエル]バックナンバー](/img/side_backnumber.gif)