温泉旅行に出掛けたといっても一日中温泉にじっくりつかっているわけではない。旅館に着いて部屋に案内され、夕食前にひと風呂浴びたあと、別室に案内され、食卓いっぱいに並べられた食膳に舌鼓を打つ楽しみは毎度同じである。特別変ったことがない限り、ぼくの筆力ではどこも同じようにしか書けない。そこでMさんが気を効かせてくれて、まず日本人としてここはぜひ観ておいた方がいいだろうという場所を先に選んで、その近辺にある温泉に行くというのではどうだろうと提案してくれた。そこで今回決まったのが「明治村」だった。
東京を発つ時は雨が降っていて満開の桜もいよいよ見納めかと心配していたが、新幹線が新横浜駅を出る頃には雨も止み、青空が開けてきた。名古屋駅から名鉄電車に乗り換えて犬山駅で下車。タクシーで「明治村」に向かった。「明治村」にくるのは三度目だというMさんは、最初来た時えらい感動したのを覚えていると言う。実際にMさんの言葉にはウソがなかった。実によくできている、頑張っている、素晴らしい、いやなかなか凄いのじゃないかとぼくも負けずに賞賛するのだった。国を挙げてやったといっても不思議ではない大事業を一民間企業の手でここまで実現したということは、よほど日本の文化に熱い想いと愛情がない限り、金儲けだけではできるものではない。日本各地で取り壊される運命にあった明治の遺産をほぼ原型を留めたまま移築して完成した「明治村」の壮大な計画には頭が下がる思いだった。本当に来てよかったと思った。
自然に囲まれた新天地を得て明治の生きた文化が一堂にこうして体験できる場所はこの「明治村」以外にはない。戦後の日本経済の異常な発展の結果巨大化した都市建築を、一○○年の歴史の彼方からこの明治の建物たちは現代に無言の批評を投げかけているようにぼくには思えてならなかった。「明治村」の建物の中でもぼくが一番見たかったのは、東京の日比谷にあったアメリカ人のフランク・ロイド・ライトが建てた帝国ホテルだった。ぼくが上京した一九六○年にはまだ存在していたが、その八年後に解体されてここに移されたのである。ぼくは五○年振りでこの建物と再会した。玄関前面の池もそのまま再現されているが、やはり感傷的な気持抜きでは対面できない何か複雑な思いがしないでもなかった。
妻も帝国ホテルを知っているはずだが、その記憶は薄く、むしろ彼女が異常な関心を示したのは、よりによって金沢監獄中央看守所の監房であった。彼女が特に興味を示したのはオレンジ色の当時の囚人服を着た人形がいる独居房だった。ぼくはこのような陰険な場所には一切興味がなく、早く出たいと思ったが、妻はこの独房の中に入って写真を撮ってもらいたいとMさんにせがむのだった。この温泉旅行で一度もこのような要求をしたことのない彼女が、かなり熱心に写真を撮ってもらいたがるので、ぼくはやめるように言ったが、実に意志が固いのには驚いた。また宮津裁判所法廷内では罪人が裁判にかけられている場所からなかなか離れようとしなかった。Mさんも「奥さん、ちょっと変ですよね」とぼくに小声で囁いた。確かに変だ。この異常な罪人に対する関心事は、もしかしたら彼女の前世の記憶の蘇りではないかとぼくはフト思った。
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愛知県 犬山温泉
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