ある時、一頭の空腹を抱えたロバが、食べ物を探して歩き回っていました。すると、幸運なことに、大きな干草の山を二つ見つけました。二つとも同じくらいの大きさです。ロバは、「右の干草の方が美味しそうだな」、ところが右の干草に近づいて見ると「いや、左の干草の方が美味しそうだな」と迷って、右と左の干草の間を右往左往し、どちらを食べようかなかなか決められません。次の朝、ロバは、どちらの干草も食べないうちに二つの干草の真中で餓死していたのです……。
これは、一四世紀のフランスの哲学者ジャン・ピュリダンによる「ピュリダンのロバ」として知られる寓話です。
相続に関する相談者の中には、この寓話と同じような結末を迎える方も少なくはありません。
第4回 ピュリダンのロバ
母の迷い
川村直子(仮名)さんは、数年前に他界した夫とともに、地元では有名な書店を営んできました。長男、長女、次女の三人の子供はそれぞれ結婚し、母直子さんは長女真紀(仮名)さんと一緒に暮らしています。長女真紀さんが、夫とともに書店の経営を引き継いでいます。母直子さんの財産といえば、夫の相続により取得した、土地六〇坪とその土地に建つ店舗兼居宅の建物が主なものです。
母直子さんは、「長女真紀さんに一切の財産を承継させ、夫婦で家業に精を出してもらいたい、そして先祖代々のお墓を守ってもらいたい」との思いと、「子供たちはみな平等であるから、三人に三分の一ずつ均分に相続させるべきだ」という法定相続分の考え方とのはざまで悩み、いろいろな人に相談をしてはみるのですが、具体的には考えがまとまらないままに日々を過ごしています。
一方で、長女真紀さんは、母直子さんのこのような様子を見て、このままの状態で母直子さんの相続が起こり、店舗と土地を円満に承継できないことにでもなってしまえば、家業の将来と高校生、中学生、小学生の三人の子供を抱えている親子五人の生活は一体どうなってしまうのだろうと不安でなりません。婿養子の夫と結婚し、両親の望みどおりに家業を継ぎ、ましてや同居して老後の世話もしてきましたので、当然に母直子さんの財産を承継できるものと考えていましたから……。
争族の予兆
ところが、家業の書店を継ぐことを嫌いサラリーマンとして独立している長男と他家に嫁いでいる次女は、ともにいずれ将来は、母直子さんの財産を法定相続分のとおり均等に分けてもらいたいと主張しています。母直子さんも、この長男や次女の意向をむげに拒否できない気持ちでいました。このままの状態で母直子さんが亡くなれば、それこそ、空腹を抱えたロバが二つの干草の山の間で餓死してしまうのと同じことになってしまいます。
母直子さんは夫とともに一代で築き上げた家業の安泰を願っており、長年にわたり同居して老後の世話をしてくれている長女真紀さんの厚意に応えることを第一に思っているのですから、その思いを実現するためには、具体的に意思表示をすることが必要となるのです。
そこで私は、母直子さんに次のような内容となる遺言書の作成をアドバイスしました。
遺言書
第1条 土地と店舗、居宅を含む一切の財産を長女真紀に相続させる。
第2条 祖先の祭祀の主宰者を長女真紀に指定する。
遺言は遺留分を無視
この遺言があれば、家業は安泰となるでしょう。長女真紀さんの法定相続分は三分の一ですが、この遺言により残りの三分の二も長男、次女の法定相続分を無視して、長女真紀さんに相続されることができるようになります。
それでは、他の子供たちの遺留分はどうなるのでしょうか?
遺留分とは、相続分の最低保障の制度でありますが、遺留分を侵害する遺言であったとしても、遺言内容はそのまま実行されます。遺留分とは、遺言が実行された後に、多くの財産を相続した者に対して請求できる一つの権利に過ぎないのです。
このケースで、長男、次女から遺留分の減殺請求(遺留分に相当する財産の返還を請求すること)があった場合には、長男、次女の遺留分は六分の一(法定相続分〈三分の一〉の半分)ずつとなりますので、長女真紀さんはその遺留分に相当する分を現物で返還するか、お金で支払わなければならなくなります。
遺留分のことであれこれ悩み、遺留分を侵害する遺言は作れないのではないかと心配する方もおられますが、遺言による財産の処分は、法定相続分にこだわることなく、遺言者の考えで自由にできるのです。

決断できなかった
ご相談に来られてから数年後、母直子さんは、遺言の決断ができないまま他界してしまいました。家業安泰の遺言方法のアドバイスを受けたものの、遺言の決断はとても困難なことであったのでしょう。遺言書がない場合には、相続人全員による遺産分割協議により遺産の取り分を決めることになります。このケースでは、長女真紀さんの不安が的中する結果となってしまいました。長男、次女がともに法定相続分を主張したため遺産分割協議が整わず、いまだに遺産は未分割のままで、お互いの関係も以前のようにはいかなくなったそうです。
相続が争族となってしまう不幸を避けるためには、遺言の決断が必要となることもあるのだということを知っておいて頂きたいと思います。
(かたおか・じゅんじ)税理士。昭和二一年、奈良県生まれ。昭和四四年、大阪大学工学部精密工学科卒業後、税理士登録。昭和五六年、片岡会計事務所所長。平成一七年ジェイシス税理士法人の代表社員に就任。経営計画、事業承継、企業再生に特化した業務を展開している。また個人の歴史、業績、思い出、作品などを個人博物館としてデジタルコンテンツとして残す「万華録」を提唱している。
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