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有馬温泉

 有馬はぼくの郷里と地続き(?) であったという認識が薄かったように思う。だから無関心に近かった。とはいうものの神戸に住んでいた時、新婚旅行で有馬に行っている。そんな話を妻にしても、忘れているのかピンときてないような顔をしている。摩耶山の麓に住んでいたので山ひとつ越えれば有馬で、そんな近場に新婚旅行をする新婚さんもそう多くはないだろう。昭和30年頃だから、行くとすれば熱海か別府の時代である。それがよりによって電車で行けば30分ほどで行ける所をわざわざ新婚旅行地に選んだ理由はなんだったのだろう。よく覚えていないが、たぶん経済的な理由からだったに違いない。
 それも一泊で帰ってきたのだから、なんの印象もない。宿泊の予約もしないで行ったものだから、旅館にするかホテルにするかで、妻と現地でもめたが、そんなことも妻には記憶がないらしい。こんな結婚のスタートをしたわりには50年も続いていることに同行のMさんは驚いている。また温泉地に行きながら部屋に備え付けの風呂に入ったのを覚えているので、温泉気分などまったくなかった。じつに形式的な新婚旅行であったわけだ。そこでもう一度新婚旅行をやり直そうといって、数日後に行ったのは近場の淡路島の岩屋という船着場だった。ここだって一、二時間で着いてしまう。この時もやっぱり一泊旅行だった。二人とも旅行に慣れていないためなのか、それとも新婚旅行というものに熱が入っていなかったのかもしれない。
 そんな想い出も記憶もない有馬温泉にやってきたのも、日本三名湯のうちの草津、下呂と制覇した結果だった。まあ、とりあえず王道を押さえておこうというじつに単純な理由で有馬温泉に来たのだった。
 新神戸駅で下車して、長いトンネルを二つほど抜けたら、そこは雪国ならぬ温泉郷だった。われわれの今夜の宿は、「欽山【きんざん】」という数寄屋造りの竹林が茂る庭に鹿おどしの音が耳にしみる高台にある高級料亭旅館である。ぼくにとって温泉旅行は非日常的で幻想への旅という想いで、妙に心が躍るのだった。
 「町に行きますか」とMさんを誘ってみたが、「今日はここでゆっくり休んで、明日町へ出かけませんか」という返事だった。期待していた紅葉は雨が少なかったせいか、山の彩りがどことなく中途半端なマダラ模様で画家の眼で採点すると、せいぜい60点位か。外気も冷たそうなのでMさんの言うように明朝町を散策することにして、ぼくは入浴を後回しにして、京風創作懐石料理の夕食に先ず舌鼓だ。酒の飲めないぼくは酒飲みのためにつくられた懐石料理は大好物とはいえない。だけど次々と運んでこられる料理の美的センスにスリルがあって、盛りつけの器や色彩豊かな料理に時に驚嘆の声を上げたものだった。
 さて風呂に入ろう。東京からバスで来た女性の団体客に圧倒されていたが、幸い男湯にはたった一人しか入っていなかった。大浴場の手前にトマトケチャップをしぼったような不透明な赤い色の風呂にまず足を入れた。ともう一方の足を入れたところが、段差があってぼくは「アッ」と悲鳴を上げたまま深みに足をすべらせ、体のバランスを崩して風呂のど真ん中で上手投げをくらったように転倒してしまった。口の中に飛び込んだ湯の塩辛いこと。もう少しでおぼれるところだったが、この醜態は人に気づかれずにすんでヤレヤレ。なにしろトマトケチャップ色ににごっていて風呂の深さが不明だったので、湯船の中で転倒してしまったのだが、他にも同じような人間もたくさんいるに違いないと妻に言ったら、「そんなことをするのはあなただけよ」と言われてしまった。Mさんはどうだったのだろう。

横尾忠則の温泉主義

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