1968年にプロ球界入りしてから、村田兆治はつねに打者に対して真っ向勝負を挑み、74年には日本一に貢献して最優秀投手にも選ばれた。その後も最優秀防御率、最多勝のタイトルを手にするなど、球界のエースとして順風満帆な野球人生を歩んでいた。82年、プロ15年目の春までは……。
その年の5月のことだった。近鉄戦の一回途中に右ヒジに激痛が走った。タオルも絞れない。苦闘の始まりだった。ハリ、キュウ、電気刺激……。いい病院があると聞けば、どこへでも出向いた。岩場で座禅を組み、霊感マッサージも受けた。「もう一度マウンドに立ちたい」、考えることはそれだけだった。焦燥感に追い立てられ、山で滝に打たれよう思い立つ。凍えるほど冷たい滝を前にした時、「死」が頭をかすめた。それほどの冷たさだった。それでも引き返すことはできなかった。
「どうなってもいいと自暴自棄の境地だった。死を覚悟しました。冷たいなんてものじゃないからね。なのに、胸のあたりが冷たく、痛い、と感じた時に『生きているんだ』と実感した。もう恐いものはない。滝に打たれていると、二人の自分がささやきかけてきた。『ここまでやったんだからもういいじゃないか』『それでエースのプライドが許すの』。葛藤だよね。そこで出た結論というのは、もう一度マウンドに立てるよう最大の努力を続けてみよう、ということだった」。 翌83年。妻淑子さんとともに渡米。米大リーグ、ドジャース担当の医師、フランク・ジョーブ博士に会うためだった。ジョーブ博士は、診察するなり言った。「右腕のじん帯が伸びきっている。これまでよく頑張ってこれたね」。激痛の原因が初めてわかった。涙が出て止まらなかった。しかし、治療法は腱の移植手術しかなかった。肩やヒジにメスを入れた投手の野球生命はない、といわれていた時代。手術が成功しても、以前のように投げられるという保証はどこにもなかった。しかし、もう選択の余地はない。「残された最後の手段」に踏み切った。
手術は成功した。しかし、すぐにボールを投げられたわけではない。「医者としてやるべきことはやった。一年間のリハビリとトレーニングが必要だが、再び投げられるようになるかどうかは、もう私の責任ではありません」。ジョーブ博士の言葉だった。
それからというもの、スポンジやテニスボールを握る訓練から始め、手術から100日後には10キロのキャッチボールができるようになった。山なりだったが、ボールを投げられた時の喜びは、言葉ではとうてい表わせない。それまでの苦労がいっぺんに吹き飛んだ。84年にファームで試運転し、そして85年4月14日。西武戦に再起をかけて先発した。2万1000人のファンが見守る中でのマサカリ投法はかつてのまま。マウンドを楽しむかのように投げ続けた。途中「腕がしびれてきた」が、復活の完投劇。1073日ぶりの勝利に、「勝ったのが自分なのかどうか。まだ信じられない」。本音だった。
同時に、再起するまでに出会った多くの人たちに感謝した。「今があるのは、周りの人たちの温かさと励ましがあったから」。その時に心に誓った。「引退したら、自分のできることで、人々に恩返ししたい」と。
村田さんは今、それを実践しているのだろう。頑固で、一本気な性格だけでは「夢」を追いかけること、まして実現することはできない。「肉体が衰えると、気力も萎える。身体を鍛えておけば、困難にぶつかっても新しいエネルギーが湧いてくるものなんだ。九回裏二死満塁、カウント2-3。さて最後の一球をどうするか。そこまでは自分で選択できるのだから、まずは体力づくりをしておかなければ」。そして、こう付け加えた。「だって人生は降板できないんだから」。
定年を迎えるといっても、人生においてはまだ七回が終了したばかりの団塊の世代。先が見えてきてちょっとばかり気落ちしている人びとを鼓舞してくれる言葉ではないだろうか。
取材・文=江成康明/撮影=牧田健太郎
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