人里離れた山の裾に「岡本太郎ギャラリー」という看板があったので訪ねてみることにした。旅館内にギャラリーがあるらしいが、館内は電気も消え、休業さながらだ。それでも中へ入ると旅館の太った娘さんが出てこられて、「どうぞ、どうぞ」と泊まり客でもないのに、われわれを館内に案内してくれた。太郎作品は十数点の版画で、なんでも太郎さんの常宿だったらしい。風呂の湯舟のデザインも太郎作だが、こちらは草津温泉のやはり太郎作の湯畑のデザインと同じフォルムの造型である。驚いたのは岡本太郎さんだけではなく黒澤明さん、木下恵介さんの常宿でもあり、「ここが黒澤さん、こちらが木下さんの部屋です」と案内された。黒澤さんはこの部屋で『影武者』と『八月の狂詩曲』の脚本を書かれたという。
伊豆には文化人や芸術家が創作の場を求めて大勢やってきている。名前を列挙するときりがないが、例えば、太宰治、坪内逍遥、志賀直哉、谷崎潤一郎、川端康成、中山晋平、吉川英治、三島由紀夫、北原白秋、室生犀星、尾崎士郎、坂口安吾、芹沢光治良、夏目漱石、芥川龍之介、梶井基次郎、木下順二、椎名誠、若山牧水、西条八十、福永武彦、井伏鱒二、小川国夫、井上靖らである。
「岡本太郎ギャラリー」のある旅館の近くにも、高倉健さんの常宿や巨人軍が忘年会などをするという旅館もあるとタクシーの運転手さんは説明してくれた。温泉がこんな風に日本の文化に貢献しているとはちっとも知らなかった。われわれのように温泉のはしごをするのもいいけれど、気に入った温泉旅館でじっくり腰をすえて、大作でも物にするべきか、とも考えてみたが非現実的な話である。
修善寺の新井旅館だって、先の安田靫彦を始め、横山大観、小林古径、川端龍子、前田青邨、速水御舟、石井柏亭、川合玉堂ら日本画壇の大御所や、歌舞伎役者の初代中村吉右衛門、二代目市川左団次、さらに文人では、岡本綺堂、芥川龍之介、泉鏡花、幸田露伴、正岡子規、高濱虚子、岡本かの子らの錚々たる芸術家たちが常宿にしていたらしい。きっとぼくの泊った部屋も右の人達も投宿されたに違いない。このうちの誰かなら幽霊になって出てきてもらってもよかったかもしれないと空想しながら「天平大浴場」で撮ったMさんの写真に円い不思議な水玉のようなものが浮いていた。早速それを絵にした。
修善寺温泉
横尾忠則(よこお・ただのり)1936年生まれ。グラフィックデザイナーとして60年代から国際的な評価を受け、80年代の「画家宣言」以降は、人間の記憶や感情をテーマにした絵画活動を中心に、多彩な創作活動を続けている。現在、3月2日から、カルティエ現代美術財団で開催される個展のための制作に多忙な日々を送っている。1月末には東方出版より「Y字路」の作品集が刊行される。
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