ようこそ ゲストさん [ログイン]


トップページ > バックナンバー > 横尾忠則の温泉主義 > 

  • 印刷
  • 大
  • 中
  • 小

修善寺温泉

 中学2年生の頃だったと思う。今でも脳裏に焼きついてぼくの記憶の中で永久保存されている映像がある。その映像は薄墨を流したような朦朧とした夢のようにあぶり出されてくる。そして、この風景が頭の中で反復されてくる度に歌が聞こえてくる。
 失恋した学生が煙にむせぶ湯の町を重い足どりでギターを爪弾きながら唄う歌である。映画『湯の町悲エレジー歌』の主題歌である。ギターの学生は近江俊郎で、歌は映画の題名になっている「湯の町エレジー」だった。まだ中学生だったぼくは、この映画と歌で自分の中の恋心が覚醒したような気分になったものだ。
 「湯の町エレジー」は空前の大ヒットで、映画も続編がつくられ、歌も「湯の町夜曲」、「湯の町物語」と湯の町三部作が売り出された。こんな話を同行のMさんに語ったら、「ピッタリの場所がありますよ」と言って伊豆の修善寺温泉に案内してくれた。
 われわれが落ちついた宿は国の登録文化財に選ばれている新井旅館である。玄関の前に立つとまず目につくのは塔のある木造三層の西洋風城郭建築である。ロビーを抜けると広大な「池泉庭園」があり、「渡りの橋」を渡ると足元にエサを求めて鯉の群がやってくる。通された部屋は「吉野の棟」というこの旅館一番の大きい部屋である。部屋というより一軒の家という感じで、内部が二層になっていた。妻と二人で泊るには広すぎる。さあ、どこの部屋で寝るかを決めかねたぼくは、襖や障子やドアを開けて、引越して来たような気分で子供のようにはしゃいだ。
 「ここなら出ないだろう」と思った。というのも、かなり以前ぼくはTBSの連続テレビドラマ「平四郎危機一髪」というのにレギュラーで出演していて、修善寺ロケに来たことがあった。そして泊った旅館で怖い恐怖体験をしたことがあったから、ふとその時のことが頭をよぎったのである。おぼろげな記憶でその旅館のたたずまいを仲居さんに説明したが、どこの旅館だかわからなかった。そして「うちは出ません」と太鼓判を押された。
 とりあえず外出することにした。旅館の下を流れる桂川には川を堰き止めている大きい岩盤があって、岩の間から小さい滝が幾筋も流れており、岩盤の上にはあずまやが建っていて、その内部は湯舟になっている。なんでも弘法大師が仏画などに描かれている独鈷【とっこ】という鉄製の両端のとがった短い棒で岩を打って霊湯を沸き出させたという伝説の「独鈷の湯」がある。「独鈷の湯」は修善寺温泉のシンボルになっており、その湯に足をつけて温まっている観光客の姿があった。

横尾忠則の温泉主義

一覧(33件)

[ファイブエル]バックナンバー