この通しタイトルは「世相ななめ読み」とついているが、これは古き良き時代の言葉である。
いまは斜め読みといったって、世相自体が斜めになっているから、斜め読みする意味がまったくない。
だから「真面目に」という言葉が添えられてもいるが、何だかはかない抵抗、という気がするわけである。
ぼくがそんなことを「如実に」感じたのは、パロディに関してのことだった。いまを去ること30年、ということになるだろうか。もう少し前か。三島割腹事件とか、連合赤軍事件ではじまった1970年代だ。自分はメディア上でパロディという方法に手を染めて、それが自分でもめちゃくちゃ面白かった。世相というものがまだ斜めではなく真っ直ぐの時代だったから、それをこちらが斜めにするとごろごろと新しい意味があらわれて、そういう面白さに夢中になった。手当り次第、意味の露天掘りといった快感があった。
でも80年代に入るころから、そういう斜めにする快感はなくなったように思う。何だかつまらなくなったのだ。どうしてかと考えてみると、もうそのころから世間全体が斜めになってきていたのだ。パロディというものが容認されて、世相そのものがパロディ的な衣裳をまとってきたのである。
容認されたパロディほどシラけるものはない。でも世相そのものがどんどん斜めになって、お笑い世界が常識みたいになっていった。そうなるとあとはもう、営業活動だけがあることになり、意味の面白さはどこにもなくなってしまった。
そしていまは2000年代だが、世の中はもう自爆の時代という気がする。
自爆テロという言葉は、いわずと知れたあのニューヨークでの9.11から強烈に世相に突き刺さってきた。それ以前から、アメリカ世界とイスラム世界との衝突で、自爆テロは頻発していた。
それまでの自爆的表現で有名なのは、ベトナム戦争のさなか、ベトナムの僧侶が抗議の意志をもって路上で焼身自殺するという事件があった。攻撃ではなく、自分の死をもって反戦を訴えたわけで、標的は人間の内面である。
でも2000年代に入り、9.11を頂点とするイスラム世界発の自爆テロは、ほとんど物理的攻撃である。もちろん自死をもって攻撃するのだから、その事件は人間の内面にも食い込んでくるのだけど、でもそれよりも自分ごと正に爆弾と化して突っ込んでいる。
日本社会での緩慢な自爆テロ
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