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みのもんた

もっと欲張りな気持を

本名=御法川法男(みのりかわ・のりお)、1944年生まれ。立教大学経済学部卒業。大学放送部の先輩に徳光和夫(現フリーアナウンサー)がいる。67年、文化放送に入社。報道部記者として活躍。深夜放送『セイ!ヤング』の初代パーソナリティー、『ダイナミックレーダー』等を担当。79年文化放送を退社。家業の水道機器メーカー「ニッコク」勤務。その後「プロ野球ニュース」(フジテレビ)の週末を担当。「午後は○○おもいッきりテレビ」(日本テレビ)の司会で人気を博する。昨年末の「NHK紅白歌合戦」の司会後、脊柱管狭窄症で入院。退院後も「みのもんたの朝ズバッ!」(TBS)、など多くのレギュラー番組をこなしている。

「日本一忙しい男」のインタビューは、
TBSの報道フロアを区切ったコーナーで行なわれた。
「ここで着替えて、打ち合わせができて、効率がいいんです」
インタビューが終わると、すぐに次の打ち合わせが始まった。
「夜の大人の番組をやりたい……」というみのさん、貪欲な62歳である。

木村― みのさんは何年生まれですか?

みの― 昭和19年。ぼくは、団塊の世代よりちょっと上なんですね。

木村― どんな少年時代でしたか?

みの― ぼくはね、小学校の頃はとにかく足が速かったですね。秋に運動会をやるんですけど、各地区代表のリレーなんかがあって、とにかく町をあげての一大イベントでしたね。畑と山のなかで育ちましたからね、いまでいうアウトドア派ですね。

木村― お勉強の方はどうだったんですか?

みの― 勉強なんかどうでもよかった(笑)。あるのはソロバン塾ぐらいでしたから。学校から帰れば、自転車にソロバンを入れて、遊びに行っちゃう。帰りは泥んこまみれになってね。家のなかでの生活は7、8時間。残りは全部外でした。

木村― そういう少年が放送界を目指そうとしたのはいつ頃からですか。

みの― 森繁久弥さんが中国大陸から引き揚げてきて、奥さまとお芝居をやっているときに、うちのオヤジの兄貴がいっしょに芝居をやっていたんです、その関係で、森繁さんが世田谷の自宅の離れにいたことがあるんです。それで森繁さんが出ている映画のチケットをもらって、よく映画を見に行ったんですね。そんなこともあって、小学校に上がった頃に、すでにお芝居や映画にすごく興味をもってましたね。

木村― 立教中学から立教大学へ進んで、大学では放送部ですね。

みの― ぼくはラジオドラマやってたんですけど、五年先輩に徳光(和夫)さんがいて、「アナウンサーはいいよ」って、うまいんだ、言い方がね(笑)。「これからはテレビの時代だよ」と、スタジオ見学なんかにも連れてってもらいましたよ。

木村― それで文化放送に入るわけですね。

みの― フジサンケイグループに採用されましてね、1年半から2年ほどは文化放送の報道部記者として、大手町の産経新聞社に行ったりしていました。同期は落合恵子さんでした。

木村― 深夜放送「セイ!ヤング」の初代パーソナリティーですね。

みの― 組合に入っていなかったこともあって、深夜やれということになったんですね。「セイ!ヤング」はスタートするわ、お昼の「ダイナミックレーダー」は始まるわで、歌謡曲の全盛時代はくるし、どっぷりと業界につかったんですね。

木村― そのアナウンサーの時に「みのもんた」と名乗られたんですか?

みの― 野末陳平さんが「御法川はだめだ」って、当時「みの」って呼ばれてましたから、それで「申年生まれだから「もんた」だ」って。ずいぶん簡単に言うなと思いましたけど(笑)。

木村政雄編集長 Special Interview

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