さて、ここは皇居に近い小さな丘の上のビルの狭間。まるで風景に溶けこんだ騙し絵のような大きな鉄の扉を開けて、静山社のある建物に入る。
「マグル(著者J・K・ローリングの造語で、魔法族の血がまったく入っていない人間のこと)の目から隠されたような建物でしたでしょ?」と、穏やかな笑顔で松岡佑子さんは現れた。耳に心地の良い、柔らかな、それでいて意志の強そうな話し声の持ち主だ。
松岡さんには少し、日本の女性とは違う空気感がある。「私は時々、魔女になるんですよ」と、どこかの講演会でご自分の活動を紹介されていたが、そういうことではない。日本の生活と海外の生活を交互にしているからだろうか? いやいや、それだけでもない。懐かしいような……侵し難いような……そうだ! 松岡さんには、いまでは時代劇でしかお目にかかることのできない「武家の奥方」の佇まいがあるのである。
結婚によって大学院での学びの道を断念し、生活の支えとしてプロの通訳の道を選ぶことになった頃のことを「結婚というものに、あこがれはなかったですね。けれど人間と人間の出会いっていうのは、商品の出会いも同じでしょうが(笑)、後先も考えずといったところがありますのでね」と飄々とした笑顔で話す。ご主人は静山社という小さな出版社を起こし、「信念に基づいて」の小部数の本作り、そして苦しい経済事情が続く。が、「私は一旦引き受けたら気軽に手放したり、あきらめて捨てたりはしません。食いついて長期的に頑張る、真剣な付き合いをします」と、穏やかだがきっぱりと言う。こういう人が、本当に強い人なのである。
そうして、ご主人の死。まったくの素人で出版社を引き継ぐことになる。
―― ご主人は松岡さんに遺言をされたのだとか?
「そうですね、一つは「静山社は潰せ」でした(笑)」。しかし、松岡さんは潰さなかった。「7年間の常勤通訳というサラリーマンを経て28歳で独立した後は、ずっとフリー。組織の中での肩書きとは無関係で生きてきました。今でこそ一応ニックネームが社長ということになっていますが(笑)、実力一本というか、自分のやりたいようにやるけれど、すべて自分で責任を取らないといけないという仕事の仕方をしてきました。そういう生き方の人間は強いのかもしれませんね」。
こんな時、運命の本『ハリー・ポッター』が、松岡さんのもとにやってくることになるのである。
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