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伊香保温泉

 群馬県にいい温泉があると知ったのはテレビの温泉番組からだったが、肝心の地名を忘れてしまった。そんな話をMさんにしたら「伊香保温泉ですか」ととっさに言われたので、自信がなかったけれど、「ああ、そうそう」なんて調子のいい返事をしたことで、どうやら伊香保温泉に行くことになったようだ。
 高崎から距離が大分あると思ったけれど、「タクシーで行きましょうよ」というMさんの意見に従ったので楽ちんだった。しばらく走ると前方に雪をかぶった山の頂上が青い山並みの背後からニョキッと頭を出しているのが見えた。運転手は「浅間山」と言った。海のない県にもかかわらず、視界はずいぶん開けている。しばらくすると遠くに蜃気楼のように薄ぼんやりと光っている白い山脈が空に浮かんでいるように見えた。「あれは」と聞くと、「赤城山と男体山」と運転手はぶっきらぼうに言った。
 いつの間にか左手にラクダの背のようにもこもこ盛り上がった山が近づいて、坂道に入っていった。林道を抜ける頃から家がポツポツ増え始めて、やたらと「うどん」と書かれた看板が目に入るようになってきた。伊香保温泉の入口に入ったらしく、旅館やホテルが坂道の左右に軒を並べ始めた。毎度のことながら、温泉街には坂道がつきものだ。そんな坂道をぐねぐね曲がりながらたどり着いた旅館は「千明仁泉亭【ちぎらじんせんてい】」で、ルビを打たなきゃ誰にも読めない屋号だ。
 荷物を旅館に預けて遅い昼食を取るために外出することにした。旅館の建物に沿って表通りに出た。この表通りというのが実は急な石段になっていて、その名を「石段街」と呼ばれている伊香保随一の名所なのである。階段の左右には土産物店が並び、ところどころに横丁があって、一杯飲み屋やめし屋などがある。その中の決してきれいとはいえない狭い一軒のめし屋に入った。旅行ガイドに紹介されているお店らしく客でいっぱいだった。帰り際、カップルの女性客から声を掛けられたが、彼女は以前ぼくが神戸で展覧会をした時にスタッフとして手伝ってくれたそうだ。わざわざ神戸からやってきたという。
 石段街の石段には与謝野晶子の詩が一行ずつ書かれていて、それを読みながら上っていった。途中、土産物店のウインドウに飾られていた写真に目がとまったが、この写真は有名な写真で日本の写真史には必ず登場する品物だ。すでに伊香保の観光ポスターにも使用されており、できればポスターを手に入れたいと思った。どんな写真かというと、階段の上からずーっと下までものすごい数の女工さんが雛壇に並ぶようにびっしり座って写っている群衆写真である。一番手前に一人の男の人が大きい旗を手にして腰を掛けている、なんとも不思議というか変な写真である。もともとこの土産物店にあった写真で、なんでも外国人が撮ったものだという。観光協会に行けばポスターがあるかもしれないと教えられたので翌日行った。運よくたった一枚だけあるというので、それを貰うことになった。

横尾忠則の温泉主義

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