野球は間【ま】のあるスポーツである。選手がじーっと対峙していて、一瞬に勝負の動きがあって、またじーっと対峙の間【ま】がある。
このリズムが、ぼくには日本のチャンバラとそっくりに見える。互いに白刃を構えて対峙していて、ひゅーっと風が吹いたりして、一方がさっと刀を振ると、同時に相手も刀で払ったりして、またさっと離れて、じーっと対峙する。
じっさいのチャンバラがおこなわれていたのは戦国時代とか江戸時代とかで、戦場ではもっと無茶苦茶に切り合ったという説もある。まあそれはそうだろう。でもそれを小説にしたり、劇や映画にした中では、じーっと向き合って非常に間【ま】のある決闘として描かれている。つまりそこのところで美学になっている。現代のぼくらのイメージする日本のチャンバラとはそういうもので、そのリズムにアメリカの野球がじつにうまくフィットしている、ということである。
野球というスポーツも、戦いが美学になった世界だから、その点は同じだ。
アメリカの本当の決闘はピストルだったようで、むかしの西部劇で見ていると、やはり物陰にじーっと隠れたりしていて、たまに身を乗り出してパンパーンと撃って、またじーっと隠れる。やはり間【ま】がある。
ヨーロッパのチャンバラはフェンシングといって、あれはかなり違う。細長くてしなうような剣で、互いにチャンチャン、チャカチャカと、絶えずやり合っていて、いわゆる間【ま】というものがない。あれはサッカーだ。
サッカーは絶えずボールを蹴り合っていて、野球とか日本のチャンバラのように、間【ま】というものがない。だからあれはフェンシング圏というか、ヨーロッパ地帯のスポーツだ。
野球がヨーロッパで流行【はや】らないのは、やはりそのリズムが合わないのだと思う。ヨーロッパには、間【ま】という感覚がないのだろうか。
そこはよくわからない。でも日本には間【ま】というものがあって、そのことをみんな難しく考えなくとも、日本人は無意識にもそれを含んであれこれしている。
ところでアメリカの野球はどうして間【ま】を含むことになったのだろうか。骨格のところに民主主義が組込まれているのはわかるのだけど、それが間【ま】を孕むものとなったのは、別に意味もなく偶然のことなのか。そこが不思議である。
野球と民主主義
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