ようこそ ゲストさん [ログイン]


トップページ > バックナンバー > 横尾忠則の温泉主義 > 

  • 印刷
  • 大
  • 中
  • 小

鬼怒川温泉

 さて、今回の温泉めぐりは鬼怒川温泉である。旅館の部屋に通された頃、辺りの風景は海の底のように青白く変色し始めていた。ちょうど旅館の真下に鬼怒川が流れていて、その上にまたがって旅館が建てられているかのように演出されていたので、眺めは最高だった。夕食が運ばれてくる前に大浴場に入ることにした。幸いにも入浴客はぼくだけだったが、Mさんは別の檜【ひのき】の湯の方に行ったようだ。ここの湯は無色透明無味無臭で、そういう意味ではわが家の湯と変らないじゃないかと、ややがっかりした。やはり有色不透明有味有臭の方が温泉に浴した気分になれて有り難いものだ。
 夕食のあと、マッサージを取ることにした。パリのカルティエ現代美術財団の個展に出席するために一〇日間現地に滞在していたが、帰国後二週間以上も経っているのに、まだ時差の影響で、すっかり不眠症に陥ってしまっていた。だから今回の温泉で元のペースに戻すためにも、さらにマッサージを追加したのである。
 年輩のマッサージのおばさんの話によると、鬼怒川も20年前は団体客で溢れ、街には芸者が繰り出し、白粉【おしろい】の匂いが絶えず、そんな面影は今は昔だと言うが、そんな栄華の時代の一端でも感じ取りたいと思ったわれわれは、翌朝街に出た。朝風呂で温まった体に冷たい風が心地よかったが、街には人影がなく、時々都会からやってきたと思われる茶髪の若い女の子の奇異な服装のグループに会う程度で、辺りは閑散としたものだ。団体客も芸者の姿も今や幻と化して、無人の舞台装置みたいである。
 熱海などの昔のブランド温泉がすたれた理由は、新婚旅行のメッカだったのが海外にターゲットが移ったことが原因だと思うが、鬼怒川温泉にはいったい何が起こったのだろう。街の中央を流れる鬼怒川に沿って林立するマンモスホテルのロビーは、どのホテルも電気が消されたままで薄暗く、落日の面影を見るようだ。日本の経済の構造が変ってしまったからだろうか。バブルを当てこんだ過剰なホテルラッシュによる自滅なのだろうか。それとも泉質に原因があるのだろうか。
 だけど日本のどの温泉地もすたれてしまったわけではない。草津や有馬は温泉客で街はにぎわい活気があった。鬼怒川温泉周辺には数々のテーマパークや美術館もあり、一日時間をつぶすのにも事欠かないだけの人気スポットも用意されているはずだ。新宿から直通列車も開通したことだし、大量の観光客を受け入れるために、鬼怒川温泉もあの手この手の新奇な企画で、きっとわれわれを待ち受けているに違いないはずだというおおよその予想に反して、見事肩すかしを食らわされてしまう結果だった。

横尾忠則の温泉主義

一覧(33件)

[ファイブエル]バックナンバー